緋色の探求
もがいた。
何も受け入れたくない。生も死も、何もかも。
無すら無い、本当の暗闇に潜るために、必死にもがいた。
それでも、結局目を染めているのは、押しつぶされるような闇の黒。
ああ、それは見たくない。
見たく、ない。とても、見たくない。悪夢、のように、幸せなあの人の、埋もれて私の肌の白を受け入れて拒んで離れて悲鳴して目蓋に閉ざされて。
そうして、しずんでいく。
チャプターが強制終了しました。
再試行します。
目的の設定をします。
「キューブの破壊」――不可能。プロテクトは解除不可能な状態にあります。他の目的の設定を再度お願いします。
「特定世界の破壊」――不可能。破壊するスペックが不足しています。他の目的の設定を再度お願いします。
「お母さんのお使い」――不可能。進行ルート上に障害物が設置されています。他の目的の設定を再度お願いします。
「……じゃあ、何?」――正確な目的の設定をお願いします。
「教えて、教えて」――正確な目的の設定をお願いします。
「ヴァレンタインは知らない」――正確な目的の設定をお願いします。
「…………」――正確な目的の設定をお願いします。
――正確な目的の設定をお願いします。
――正確な目的の設定をお願いします。
――正確な目的の設定をお願いします。
「……うるさい、よ」
―――――――――――――――――。
自身を押しつぶすように積載していく日々が、また今回も途切れなかった。
もとから期待はしていない。絶望し受け入れてきた、とてもとても確率の高い日常。
今日もまた、恐らく、彼の心を緩やかに陥れる、何の変哲もない普遍の出来事が展開される。
好きになれない苦痛の一つだった。
いや、あるいは、それを彼は苦痛と数えていないのかもしれない。
数えるならば、それは苦行か。
「……私は、聖人のつもりでは無いのだがな」
シニカルに言い、そして笑わない。
死後硬直したように随分と固い首の肉を撫で、それから爪を立てて掻いた。
微弱な痛苦が神経を走り、一日を耐えるための気力を奮い立たせる。
閉じられていた左のまぶたが開け放たれた。明かされた左の瞳は、仮面の闇の中で青色の輝きを照る。
そして、山が沈み谷が肥える大地の挙動のように、ゆっくりと体に身じろぎが走った。動きに従属する銀髪がわずかに跳ねる。
しなやかで強かな腕が大地に反抗する。反動で持ち上がった上半身を、足がその勢いに乗って一気に立ち上がらせた。
曖昧に頼りなく、しばらく立ち尽くす。視界を侵食する銀髪を指で横に除け、意味のない大きな嘆息を放った。
周囲を見渡し、それが眠る前と同じ風景だと知れた。当たり前で予測のしていたその光景だが、それでも一寸の期待はしている。
ヴァレンタインの発見、及び破壊。
「あの男」よりヴァレンタイン監視の命を受けていたレイヴンは、体感的に二日前から彼女の存在を感知していた。
しかし、彼女は既に完成していたのか、存在していた座標を頼りに向かった先には、平坦な赤い土地しか広がっていなかった。
それから、わずかな存在の残滓と行動のシミュレートを組み合わせ、何とか足取りを追っている最中なのだが、二日もかけて何も見つからないというのは焦りが生じる。
「たかだか傀儡ごときが……」
憎しい意をこめてぼやき、頭を掻く。
そもそも彼の概算上では、ヴァレンタインを既に発見しているはずなのだ。
だが、今まで観測し、蓄積して熟知しているはずの行動パターンとは明らかに違うその移動と、彼女の目的であるはずの「お使い」から外れている道が、彼のシミュレートを混乱させていた。
「慈悲なき啓示」は、何を企んでいる?
掻き乱された脳内では、疑問の洪水が渦となって回っている。
それでも、レイヴンは歩き、周囲を監視する。
ヴァレンタインはいるのか――?
「あるいは、ゲートを引き当てたか?」
自分でも在り得ないと思うほど、天文学的低確率の事象を疑った。
自嘲し、バックヤード内部での座標を確認しようとした時――。
「あなたは、誰?」
跳躍。
背後に顕現した気配から、問答無用で距離を取る。
前方へと大きく一歩。振り返り際に法力を展開し、周囲の赤い情報に自分を融けこませた。
すぐに風が、自身の周囲に渦巻き纏わりつく。風と同化している。相手からは不可視のはずだ。
こちらからは見えるが。
……ヴァレンタイン。
「――カァッ!」
気合の一声は、なるべく抑えた。
彼の中で唯一現した、右手にある金属質な直線は、鋭くヴァレンタインに進行する。
しかし、肉を穿いて血に染むより前に、彼女はふわりと上昇した。
彼の風の塊を足がかりに、ヴァレンタインは上空に逃げた。空中ではほとんど移動はできない。仕留められるはずだ。
針は獲物を捕らえた燕のように急上昇した。銀色の細いくちばしは、彼女の左足の腿をついばむ。
「ディスコード……」
つぶやき、ヴァレンタインはその針の根本へ右足を叩きこんだ。
「……ッ!」
思ったより強烈な衝撃がレイヴンを快楽に貫く。
彼女は衝撃の反作用を位置エネルギーに変え、彼から離れる。左足から流れる赤い血が、赤いバックヤードの中でも鮮やかに軌跡を描いた。
縦方向に一回転し、ヴァレンタインは地面に降り立った。レイヴンは右手の針を再び同化させ、その場で法力を練り上げる。
「鈍れ!」
彼女の周囲に、抑圧する風の壁を構築。即席のため長くは持たないが、先程の俊敏さを殺せるのであれば充分だ。
再び針が姿を現した。今度は両方の手の針である。
挟みこむように両腕を広げ、ヴァレンタインへ襲いかかった。
だが、彼女は右腕を突き出し、それをぐるりと回転させる。
周囲にある風の壁が、それを構成する法力を凌駕する法力によって解き放たれた。鎖を引き千切った狂犬のように、行使者であったレイヴンに牙を向く。
舌打ちし、目の前に法力の陣を描く。暴風は陣を破けずに横に逸れ、彼の髪とマントを弄ぶ。
その、わずかなタイムラグの間に、ヴァレンタインはすでに法力を完成させていた。
「……拘束して」
小さな声が、強大な法力の手綱を引く。
見えない法力の縄は、バックヤードの情報を押しのけてレイヴンへ向かう。
体勢を崩していて、法力を編み上げる時間もない。
彼は諦念と苦悶の表情で法力に絡まれた。
四肢と腕に束縛の感触を覚え、地面に体を固定される。不可視にする術は法力ばかり消化して意味をなさない、と悟ったレイヴンは、諦めて術を解いた。
姿が現れた彼を見下げ、ヴァレンタインは言った。
「あなたはスケールが小さいの。それより大きいヴァレンタインには、抗えない」
「…………」
「だから、教えて。
ヴァレンタインは、何をすればいい?」
沈黙。あるいは絶句。
しばらく、かなり、時間を置いて、レイヴンの口が緩慢に言葉を生成する。
「……何?」
「質問されても、わたしに答えはないよ。
教えて。あなたはわたしを襲った。だから返り討ちにしてみた。
けど、その先はどうすればいい? 分からないよ。分からない。お母さんは何も言わない……」
断片的な彼女の言動を寄せ集め、レイヴンはそれを何とか繋ぎ合わせた。
「……命令を受けていない?」
「そう。困ったな。お母さんが言わないとわたしは意味がない。
けど、お母さんはわたしを消さない。どうしてだろ。んー、んー、んー」
口に指を当て、悩むような素振りを見せる。
状況を把握しようと、彼は古びた脳から情報を引っ張り出す。
ヴァレンタイン。
「慈悲なき啓示」の落し子であり、「あの御方」の友人であった女性「アリア」と酷似した姿で出現するバックヤードの発生個体。
感情はなく、「慈悲なき啓示」の手足となって動く人形。
しかし、だとすれば命令なしには動けないはずだ。感情がなければ、自律行動も取りはしない。
では今、目の前にいる者は何だ?
探るため、彼はまた彼女に質問を投げかける。
「貴様は、何故動いている?」
「意味を探してるの。ヴァレンタインが消失しないのは、意味があるから……でもお母さんは、その意味を教えてくれない。
このままだとわたし、意味がないのと同じ……」
うつむく表情は、相変わらず無機質な造形だった。
しかし、その言葉の意味とリンクして、何故かそれが迷子になった子供の不安さと同質の表情を浮かべているような気がした。
思わず黙るレイヴン。彼女はそれに構わず、手を組んで彼に乞う。
「けど、貴方はヴァレンタインを知っている確率が高い。
ねえ、教えて、教えて。
ヴァレンタインは、今どういう意味を持っているの?」
「そんな事、敵に教えると思うか?」
「他に教えてくれる人がいないの。
バックヤードから出られる確率は天文学的だから、現世の生物に聞く手段は放棄。
バックヤード発生体の中でも、高確率的に誰もヴァレンタインの事を知らない。
お母さんは、ヴァレンタインを否定してる? お母さんの所にも行けない。
どうしよう、どうしよう。わたしは無くなればいいの? でも違う。どこか、違う……。
それを処理できない。放置するにも、目的が無いと何もできないよ」
「なら、自分から消えろ。貴様の存在は害悪で成り立っている。
消え去れ。そして二度と出てくるな」
暴言をのたまうレイヴンの喉に、ヴァレンタインのブーツが食いこむ。
「ガッ……ァ……!」
快楽に全身が震えるも、声帯は潰されそれを表現できない。
ヴァレンタインは足を除け、無表情にその様を見下げ、
「酷いな。ヴァレンタインを否定するなら、ヴァレンタインも貴方を否定するよ。
消失させるよ。崩壊させるよ。破壊させるよ――」
続ける。
「殺戮するよ」
ぞくっ。
冷ややかなその言葉に、レイヴンは反応した。
「……お前にできるか?」
「……?」
首を傾げるヴァレンタイン。
その様子を見て、レイヴンはふっ、と苦笑した。または、自嘲。あるいは、両方。
「私は、死ねない」
「嘘」
即答し、否定するために彼の手から針を盗り、それを持ち主の胸に突き立てる。
「はあっ……あぁぁぁぁあぁぁッ!」
恍惚とした囀り。
千年以上も凝固せずに淀んだ血というのはそれなのだろう。暗く沈んだ色の血は、瞬く間に針をどす黒く染め上げた。
黒い服、黒い仮面、黒いマント、レイヴン自身、ヴァレンタイン自身の一切の隔たりも差別もなく、血はそれらを侵していく。
「うん。致死量だ」
残酷に確認して、ヴァレンタインは針を引き抜いた。ぐじゅりっ、と針が肉と血から別れる音。
直後、肉が再生・脈動して胸の穴を塞ぐ。失った血は急速に補給される。
ついには、彼は貫かれるより前とほぼ同じ状態に戻った。唯一違うのは、服装の一部の濃淡が変わったくらいだ。
彼女はそれをじっと観察し、感情の抑揚なくつぶやく。
「不死性……バックヤードのノイズ。その産物だ。
すごく確率の低い存在だ。分母に模糊も那由多も及ばないくらいに超大で矮小な存在だ」
ククッ、と笑い、レイヴンはヴァレンタインを指さした。
「随分と率直で深刻な苦痛をありがとう。そして――これは礼だ」
レイヴンが言うが早いか。
会話の間に緩んだ束縛の法力に、自身の血を介して反抗法力を注ぎこみ、一気に起き上がる。
「――!」
ヴァレンタインが反射で法力を構成するも、遅い。
人の肉を容易く断つレイヴンの手刀は、彼女の脇腹を深く裂いた。
平坦だった肉が口を開き、そこから血が噴出する。
一拍遅れて、出来損ないの法力がレイヴンの仮面を薙ぎ、彼の素顔が情報の外気に晒される。針先を思わせる目の鋭さが、虚空を射貫いた。
ヴァレンタインの平衡感覚と立っていようとする力が脇腹から流れ出す。視界が揺れ、体が揺れ、彼女はばしゃりと音を立ててバックヤードの赤い浅海に倒れた。
仰向けになり、朧な赤い瞳が赤い空を映す。
その空に、黒い雲のようなものが映りこんだ。
「……なんで、」
色を失った唇が、脆い声色を聴覚に描写する。
「ヴァレンタインは、生まれたの? お母さん、お母さんからなにも言われない。意味がないよ。でもなんで生きているの? 意味がないのに生きている。なんで?」
黒雲は、くぐもって聞こえにくい声を発した。
「生きている意味など、端から無い」
「え……」
与えられた情報が処理できない。
「意味がないと、生きられないよ。ヴァレンタインはお母さんの……、……」
声が、視界の色と共に消失していく。
「赤子は産まれた時から自分の意味を知っているというのか? 知も得ない微生物は自分の意味を分かっているというのか?
そして、意味を知らないとしても、その生命活動に支障が出るのか?
全て、違う」
黒雲が砂嵐のようだ。ノイズが視界を走る。灰色の線が世界を覆っていく。
「意味とは、人が己の精神を生かすために己で創り上げた妄想だ。
お前は、自分の器を与えられた。自分の魂を与えられた。必要な材料を与えられてもなお、意味を与えられるのを待っているのか?」
目蓋が重い。閉じていく。
「意味は、自分の心身から捻り出して創り上げる力だ。
自分とはそうであるのだと、そう勝手に結論づけて情けない運命を受け入れるために必要な力だ」
「……あなたは……意味は……?」
口がそれきり動かなくなる。眠くなってきた。
「私が生きる意味は、死ぬ事だ」
―――――――――――――――――。
赤い紅い朱い緋い。
バックヤードの胎内の中。情報の胎盤に包まれて、白い私が構築されてゆく。
なんの意味もないけれど、手を掲げて、観察する。
とても白くて、それでもその中には赤い紅い朱い緋い、血が流れている。
生きている。
そして、三人目の私は、どんな意味があるのだろう。
もしかしたら、また与えられるかもしれないけれど。
疲れて、手をぱた、と目蓋の上に乗せる。
黒い暗い昏い無い。
けど、何故か押し潰されない。
黒は、もうあの人の髪の色を思い出さない。
黒は、今はあの人の血の色を思い出させる。
とても青くて、それでもその中には黒い暗い昏い無い、血が流れている。
生きている?
生きている意味は、死ぬことなのがあの人の意味。
死んでないから、生きていない?
分からない。分からないよ。お母さん。
あの人の意味が死ぬことなら、何故あの人は生まれてきたの?
あの人の意味が死ぬことなら、何故あの人は不死になったの?
じゃあ、何?
教えて、教えて。
「あの人の意味が死ぬことなら、何故あの人は嬉しそうに言ったの?」