ちかしい末端
虚しさが、膨らんだ胸に溜まっている。
手すら何も掻き抱いていない。先程まで腕の中を占めていた枕は、腹立たしい事象を思い出した時に壁へとぶつけた。
目の前に広がる楽器類を破壊したい願望に囚われたが、自制の檻がそれを塞ぐ。それが後々、後悔や自己嫌悪に代わるだけだと、経験が知っていた。
だが、抑え切れない憤怒が胸中に満ちている。
外に出さねば己が瓦解するような憎悪がある。
脳裏に顔なき顔が不快によぎる。
その憎らしい口から出た言葉は、いつもと同じ嘲りだった。
しかし、今回は少し勝手が違っていた。
ほんのわずかばかりの好意を集めて形成したような、感謝とも言えない示しを渡そうとしたのに。
それを踏みにじられたように思えた。
イノはいらだちのままに罵倒した。
過剰なまでの罵倒に、相手もまた罵倒で返した。
こんなはずではなかった。
本来なら、もっと穏やかになる計画だったのに。
自分の短気よりもまず、自分の胸の内を知れない相手の、いつも通りの言動が、いつもよりもずっと憎らしかった。
そして、あいつなんか消えてしまえばいいという思いが浮かんだ。
浮かんだ時から、彼女が動く。
ゴミ箱に好意の残骸をぶちこみ、彼女愛用のギターであるマレーネを取り、帽子をかぶり、表情を鎮め、期待の笑みを浮かべる。
そして、最後に侮蔑の言葉を部屋に置き、
彼女は時間を跳んだ。
激しい時間の水流に抗い、掻き分け、イノは目的の時間に達したと知ると古い地を踏んだ。
あたりを見渡す。
木は存分に枝葉を広げ、日光を享受している。
足元の枯葉は団子虫が食い散らかし、土へ還る途中だった。
鳥は仲間と共にさえずり、遠くの鹿は跳ねるように移動する。
ブラックテックに侵されていない森。
どうやら本当に目的の時間に着いたらしい。千年以上も前の中世時代のドイツ。それがイノの目指していた、今いる所だ。
「ふぅん……」
自分の業に感心する意味で、鼻にかけた息を吐き、酸素を取り戻すために吸う。
と、そこで血の臭いがした。
鉄と生臭さが入り混じる独特の血臭。嬲る際に何度も嗅ぐその臭いを間違いようもない。
イノは自然と臭いを辿っていき、森の深奥から境界へと移動する。
視界が開けた。
木々の柱を抜けた先には、昔の文献で見たような戦場があった。
科学も法力も無かった時代。何の工夫もなされていない槍や弓を手に、非効率的な戦いが繰り広げられている。
最前線の兵は槍ぶすまを展開し、背後では補給されては矢を射る弓兵が援護していた。
自分ならこのくらい容易く一掃できるのに、と、もどかしい気分に駆られたが、イノの目的はそれではない。
レイヴンを殺す。
それも、最高の屈辱を与えた上で。
今の時代ならば、不死性が発現していないはずだ。だから殺せる。抹消できる。そうすれば、この時代に連なった元の時代のレイヴンも、消失する。
打算し、イノの口元に下卑た笑みが浮かぶ。
確か、レイヴンは騎士だった。そうならば、もしかしたら、この戦場の中にいるかもしれない――期待を持って見回していると、兵士たちの歓声が上がった。
「援軍だ! 援軍が来たぞ!」
振り返る。そこには騎馬の群があった。手に手に馬上槍を持ち、前線に到着しては歩兵を突き刺し、蹴散らし、猛りを上げて武勲を重ねた。
中でも、背が高く、白髪を頂く若者はまさに獅子奮迅の活躍をしている。若者と同じ年齢の新兵は腰を抜かしているというのに、その若さで馬上槍を巧みに操り敵兵を蹴散らす様は、御伽話の中のように現実味に欠けていた。
欲望に駆られる。
マレーネを手に構え戦場へと踏み出した。が、兵士はイノを見るや否や、その腕をつかみ怒鳴り散らす。
「女が何をやっている! ここは戦場だ。命が惜しけりゃとっとと去れ!」
「アァ!? 誰に口きいてんのか分かってんのか!?」
ブーツのヒールで兵士の足を踏み、痛みに悶絶する兵士をよそに、イノは件の若者に近寄ろうとする。
しかし、馬の速さには勝てなかった。法力で瞬間移動、あるいは高速移動をする事も考えたが、必要以上に注目を浴びて妨害に遭う可能性も考慮し、己の足で走った。
途中の妨害は障壁で弾き飛ばした。
「待ちやがれッ!」
言葉は届かなかった。距離は開けていき、ついにイノは若者を見失った。
これ以上追うのは無駄骨だと悟ったイノは、その場に立ち尽くす。
あたりの兵士はすかさず槍を向けた。
当然だろう。騎馬隊で荒らされ回った上に、追い打ちをかけるように現れた女。
それを敵軍からの手先と考えるのは、何ら不思議なことではない。
しかし、イノにとっては不可解で不快この上ないことだ。
何故、こいつらの誰よりも高位な存在の自分に敵意を向けてるのか、と。
「……誰に先っぽを向けてんだよ、オラ!」
その怒りのまま、マレーネの弦を掻き鳴らす。
荒々しい旋律を繰り返すリフは、単なる空気の音から空気の刃へと凝縮され、周辺の兵士を吹き飛ばし、鎧をつけてもなお神経を痛みに共鳴させた。
当時の文明から見れば魔法としか思えないそれに恐れをなし、兵士は逃げ腰になる。
「先走ってアタシを満足させなかったコト、後悔させてやるよ!」
背後を見せた兵士に向かって叫ぶ。
叫びもまたリフと同様の力を伴い、兵士の背に直撃した。
ギターと槍のシンバル、悲鳴のヴォーカルが、戦場に似つかわしくない狂騒曲を紡いでいた。
数え切れないトラックは耳に収束する際に自然とトラックダウンされ、それでも褪せない響きがイノを高揚させる。
彼女が、また笑う。しかし、デクレッシェンドに曲の体裁が失ってゆく。前方に広がる軍は潰走状態に陥っていた。
頃合いと思い、ゲインが上がり切って歪んだ音が場を締め、頭の中で勝手に拍手が再生される。
フラストレーションの行き場を失い、いらだちを覚える。が、本来の目的を思い出して、頭を振りかぶった。
「レコーディングはこれからよ……。アイツの醜い喘ぎ声を、アタシの脳に録ってあげるわ」
騎馬の若者が来た方向を、イノは待ち遠しそうに見つめて言った。
大広間の重厚なドアを開けて、出迎えたのは酒臭さ。
ただ苦いだけの物を嬉々として飲む、年老いた輩の心理が理解できない。しかめっ面をして、若者は手近なイスに腰かけた。
勧められた酒は断り、汚れたテーブルクロスの上から七面鳥のモモを捻ってちぎる。
大口を開けて食べようとした丁度その時、妨害するように隣の中年が若者に話しかけた。
「よう、青二才。
戦勝したのに辛気くせぇ顔持ちこんで、一体全体どうしたんだ?」
「……お前が話しかけなければ、幾分か辛気くさくならなかっただろうがな」
言って、構わずモモをかじる。高価な香辛料ではなく、安価な塩を振って焼いただけの肉だ。酒用の味つけで、単体で食べるには塩気が多過ぎる。
酔い覚まし用の水を注いで飲み、その塩気を口から胃へ追いやる。またモモをかじった。
「そんな性格だから、テメェは陰口言われンだよ。
その陰口聞いてくれりゃ、少しくらい自分の身の振り方もわきまえられるんじゃねえか?」
「別にいい。嬉々として自分を不幸に落としこむのはオレの性分じゃあない」
「だろうな。それより、俺のほうは後ろから弓を射っててわかんなかったけどよ、テメェは知ってるよな?」
唐突な問いかけ。明らかに情報が欠けている文章に、若者は眉を潜めて中年を睨む。
「知ってねえのか?」
「何がだ」
「うーん。前線のジイさんから聞いたんだけどよ。赤い女の話」
「……ああ」
そういえば、視界の端にそのような女を見た事がある。
しかし、若者はその時、女に注目するよりも眼前に広がる敵兵の海を蹴散らすのを優先していた。あまり詳細は分からないが、こくりとうなずいた。
「なぁんだ。分かってるじゃねぇか。
話によるとよ、そいつはたった一人で、手も武器も触れずに敵を倒していったらしいぜ」
「そんなことはありえない。どうせ恐慌に陥って幻覚でも見たんだろう」
「いやいや、それがそうでもねぇんだよなぁ。
他のヤツからも話はちょろちょろ聞いてるさ。やれ魔女だ、やれ女神だ、とよ」
「呆れ」の意味合いを含んだ息を吐き、若者が否定する。
「魔女も女神もいない。そんなのは、なにかの見間違いだ。
この世に魔女なんていない。ましてや、女神もいない。いるのは、オレたち生物だけだ。
そんな姿も現れないものを信じても、何の得にもならん。恐れるなら、それだけ損になる」
「相変わらず信心ってモンがないな……」
「悪いな。動かない神様に拝んで祈るよりも、その合わせた両手で剣を握るほうがオレは安心する」
今度は呆れの息を中年が吐く。それ以降、話しかけようとする素振りを見せない。
若者は持ったままの、鳥のモモをまたかじる。
かじる。かじる。
真夜中。
日付が今日から明日へまたごうとする丁度その時。イノは古い要塞を見上げた。
戦争用に造り上げられたものだろう。岩壁は頑強に集まり、ぽっかりと空いた穴には大砲の口が覗いている。
頭一つ飛び抜けて高い見張り台は月を指し、窓から月光を取りこんでいた。
ここが、若者の敵軍の拠点だったのだろう。しかし今や、要塞にいた数人の敵兵は胸を刺された状態で野ざらしにされている。
そのせいで血の臭いがするが、酒の臭いも混じっている。イノは見張り台に人の気配がないのを確認し、空中へ飛び上がった。
冷たい夜の空気を裂き、イノは見張り台の屋根に降り立つ。岩壁一枚隔てた先を見下ろすと、酔い潰れた男たちが赤い面をして眠りこけている。こちらを見る者はいない。
イノは安堵し、要塞内を舐めるように見回す。物質を視覚的に除去していき、やがて若者の姿が暴かれる。
跳ぶ。
足先が固体と離れた刹那、空間湾曲を操る。
効果範囲は赤い帽子から赤いブーツまで。ターゲットは若者が眠るベッドの脇だ。
ギィィィ、と、無理矢理ひしゃげられた空間が悲鳴を上げた。目の前が混濁し、意識が揺さぶられる。足元にまた固体の感触が戻った。
木の床が、空間の悲鳴と同じ音で軋んだ。その音で何者かの来訪に気づいた若者は、跳ね起きてすぐにイノを見つける。
「……誰だ」
「あぁら、随分と冷静ね。『今』のアイツと同じでからかい甲斐がないのね」
若者からすれば、何の繋がりも無い返答。いや、答えですらない。
くつくつ笑うイノを見て、若者はふと思いつく。
「あの時の女か」
「あの時?」
「今日の昼間。お前はオレと同じ戦場にいた女だろう」
「――ああ、あれ。
多分そうよ。覚えてるなんて光栄だわ。それとも、そんなに魅力的だった?」
若者に詰め寄り、イノが吐息を顔にかける。焼畑の煙を浴びたように彼は顔をしかめた。
その様子を見て、面白そうにイノは表情を妖艶に形作る。
「それでも、アイツと全部いっしょって訳じゃないみたいね。アイツなら、近寄った瞬間に振り払うもの」
今、目の前で自分をある程度許容する人物。
先程、自分を見たその時から嘲笑した人物。
同じ人物。それでも差異が生じている。
時が人を変えるのは知っていたが、不死者というのはどこまでも同じようなものだと思っていたイノにとっては新事実だ。
イノがベッドを軋ませ、若者と同じく上に乗る。今までの彼女の言動、行動を理解できない彼は、答えを知るため思わず声を荒げた。
「何だ、貴様は!」
「アタシ? アタシはイノ。
アナタの未来を潰しに来た。けど……それより興味深いコト、見つけちゃった」
彼のあごをしゃくる。血色の良い美貌がイノの瞳に映る。
「……潰さないで、むしろ変えて有効利用したほうがいいかしら?」
「だから――」
その続きはつむがれなかった。
若者の口を、イノの指が塞いだ。
「今」のように死後硬直のしていない肌の感触。それを指に覚えこませ、解放させた。
「――何だ!」
ようやく、続きが出る。
イノの右腕を取る。それを引いてから彼女の左肩を打突した。
ベッドに倒れこむイノ。それにおおいかぶさり、若者が彼女の動きを止めさせる。
顔と顔が近い。彼が睨みつける様の、眉間の皺まではっきりと分かった。
「今度こそ答えろ! 貴様は、一体、何が目的だ!」
言葉の一句ごとに力を入れる。
それでもイノはほうけたように若者を見つめているだけだった。それにいら立ちを覚え、彼が更に言葉を吐く。
「貴様は誰だ? 暗殺者か?
だとすればオレは大将じゃあない。暗殺するならオレよりもっと都合のいい相手がいるはずだ。それとも――」
「……ウフ」
「何が可笑しい!」
「ねえ。こういう組み方って……、行為のと同じよね」
すると、彼は客観的に己の姿を見ることができた。
彼の顔が炎上する。
「な……、なにを……何を言うッ!」
「思ったよりウブねぇ。お姉さんが、イロイロ教えてあげようかしら?」
「断るっ」
「あら、遠慮しなくてもいいのよ。
それとも……無理矢理っていうシチュエーションが好き?」
有無もいわせずイノが転がる。
無論、イノの腕を取っていた若者も連動して転がった。
位置関係は逆転し、今や彼の方が下になっている。
イノが緩慢に口を開く。
言葉責めをしようと、そしてそれには何が一番有効だろうかと、口を開く間に考える。
そして、苛む言葉が発するより早く、若者が罵倒を口にした。
「醜婦め」
止まる。
イノの口が閉じる。下卑た笑いも消え去った。
不快の起爆剤となったその言葉は、なおも続く。
「貴様のような女など、この世の誰一人とて受け入れないだろう。――」
――「あの御方」も誰も、何もかも。
「やめろ!」
ヒステリックに叫ぶイノ。
若者は思わず黙った。それほど、彼女のその声が、表情が、これまでと一変して耐え難い憤怒を孕んでいたからだ。
彼女にバックフラッシュが起こった。
「今」の声色。「今」の抑揚。「今」の表情。
それらが、全て先程の若者の言葉と一致していた。
そのせいで、彼の切った言葉の先が、「今」の内容に補完される。
「結局テメェも同じだ……。テメェもアタシを嘲るのか!」
先程とは別人のようだった。その変わりように若者は押し黙り、唖然と彼女の顔を見つめる。
と、右頬に衝撃が走る。
銃声に似た音が響き、脳が揺れると同時に、彼は強烈な平手で打たれたのだと知った。
攻撃に備え、身構えた。が、イノはすぐさま若者から離れ、窓縁に座る。
そして、後ろへ倒れる。視界から消えようとするその際、彼と目が合い、
「やっぱり死ね」
冷酷に宣告した。
見張り台の鐘は、鼓動のペースでけたたましく鳴る。
敵襲の警鐘。それを聞き、若者はベッドから飛び起きた。
あれから寝ていない。
女の正体、そして言動。それらを考えていたら、ぞくりとする何かが背を走り、眠ることなどできなかった。
ただ横になっていただけで、意識が夢に浸かったこともない。疲労を溜めこんだ体を動かし、武器庫へ急いだ。
通路を走っていると、昨晩自分に声をかけた中年がいた。中年は若者を見ると、
「この要塞を取り返すつもりだ!」
訊かれてもいない理由を話す。
若者はどう返すべきか分からず、とりあえず首肯した。
武器庫が見えてきた。中年はいつの間にやらいなくなっていたが、この際どうでもいい。扉を開け、目に飛びこんだのは弓矢だけだった。
彼は弓矢を触り、慣れない感触を得る。いつもは前衛で剣や槍を振るうため、どうにも手つきもぎこちなくなる。
が、無いものを振るうことはできない。仕方なく弓矢を手にし、彼は要塞の岩壁に立った。
眼下に、敵兵の海が広がっていた。
鎧の音がやけに響く。
平原の凝固した血の黒と折れた刃の鈍色が、戦場の痕だと知らされる。
しかし、草を折る大軍の足音が、再びこの地を争乱のものになることを予感させた。
「――敵軍は戦勝の宴の後であろう!
その気の緩みを突き、我等が要塞を取り戻そうぞ!
更に、昨日の憎らしい魔女も対抗できぬ程の兵器が、我が軍にはある!
諸君! 我が軍に、我が国に勝ちを献上せよ!」
老将が嗄れ声も高らかに鼓舞し、その声に応えて兵たちが槍を、剣を、矢先を天に突く。
その様に感服し、老将は深くうなずくと、槍を要塞へと向けた。
「弓兵、弓矢の用意を!」
すると、要塞を中心に緩やかな円弧を描く弓兵が、一斉に弓矢を要塞に向ける。
「衛生兵、大砲の用意を!」
そして、ここまで押してきた大砲の角度を調整し、火薬と砲丸をこめる。
「――射て!」
ヒュウ、と口笛が風に溶けこむ。
「始まったようね……」
空を削る矢の群れが要塞の中に吸いこまれ、葡萄のように肥えた砲丸は弓兵ごと岩壁を崩す。
敵軍の数は見たところ、昨日と同等の数である。しかし、若者のいる軍には死者がそれなりにある上、援軍もあれ以来ない。おそらく、その数は平原をおおうあの軍ほどはないだろう。
数は、それだけで力になる。個人差に大きく左右される法力も得ない中世では、なおさらその公式が当てはまる。
だからこそ、若者の軍は負ける。だが、自分が望むのは若者を己の手で嬲り殺すことだ。それを第三者である敵軍に為されては、せっかくこの時代まで来た甲斐がない。
三度目の砲丸が、残り少ない弓兵を全て岩壁に沈めた時、ようやく要塞から騎馬や歩兵が出てきた。
カマキリの卵を潰したように、わらわらと平原の地を踏む。入り口を狙っていた四度目の砲丸がそれを潰し、大きな損害を若者の軍に与えていた。
しかし、騎馬にはダメージはない。イノはすぐさま戦場へ駆け寄り、こちらを見た敵軍の兵士が恐怖の表情で槍を振るう。
「まただ! またあの女だ!」
「魔女! 魔女が来たぞ!」
呼びかけの形をした悲鳴を上げる兵士たちを、イノは難なく吹き飛ばした。マレーネの力を発揮させるまでもない。彼女は騎馬を猛追し、若者を探していた。
が――。
「……クソがっ!」
騎馬を見たイノが暴言を吐く。
白髪を頼りに探していた彼女は、その特徴を持つ騎馬に嬉々として襲いかかった。しかし、それは生来のものではなく、老化によってのものだった。つまるところ、若者ではなかった。
他の騎馬も探す。それでも若者はいない。倒れた騎馬も見た。歩兵も見た。それでも、いない。
胸中で澱のように溜まるストレスが、力量の波によって噴出されようとしたその時、肩に手が置かれた。
「勝手に触んなよ! ゴミごときが!」
振り払う。そして、手を置いた無礼な者に顔を向けると、そこには中年の顔があった。
「姉ちゃん、今日も加勢してくれるのか?」
「アア? 何言ってんだテメェ?
たまたまアタシにちょっかいかけたヤロウが相手だっただけで、今アタシを不快にさせたアンタにブチこんでもいいんだよ!」
言って、イノが中年に敵意を向ける。時々振られる文字通りの横槍は、法力の壁で弾いた。
ふと、質問が浮かぶ。イノは幾分か声のトーンを落とした後、中年に訊く。
「テメェ、白髪の青年を知らねえか?」
「あいつか? あいつは、多分、――死んだ」
「……死んだ?」
唖然。
「ああ。あいつは弓矢を取った。
そして、弓兵は全滅した。だから、多分死んでる」
無言。
「あん時、俺が剣を取ってなけりゃ、今生きてただろうに……」
無言。
「アイツ、若かったのにな……。まだ俺のように、人生に飽きてもいないし、絶望もしていない。
そんなヤツから死んでいくなんて、やっぱアイツの言う通り、神様なんていないのかもな」
中年は、寂寥感を感じさせる声色でそう締める。
イノを縛りつける、満足のない達成。
言いようのない喪失感。
茫然自失といった瞳で、彼女は虚空を見つめていた。
「……そうかよ」
一言。
彼女は法力の壁を解き、ふらりとした足取りで、時空の狭間に飛びこんだ。
レイヴンが死んだ。
実感が湧かない事実。その事実の行く末を辿っていく間、イノは考えていた。
――憎いヤツが死んでも、意外と喜ばないモンなんだな。
自分でも驚くほど無感動に、彼女はふらふらと時空の道を歩く。
辿っていけば、西暦2186年に着く。「今」と違うのは、そこにレイヴンがいないことだけだろう。永年夢見ていた理想が、間近に迫る。
――ここだ。
ようやく到着した。長いはずの帰路は、あっさりと終結する。
時間を開き、ダイブしようとする。だが、
「…………」
行けない。
自分が、その時間にいることを許されていない。
「何なんだよ……」
口が歪む。
理由が分からなかった。何度も試みても、弾き返されてしまう。何故だ?
何故だ――?
その自問に、何分も時間をかける。
答えは単純明快だった。
「簡単なコトじゃねぇか……」
不快に口元を押し下げ、指を食む。
「アタシの血統の誰かさんが、あのヤロウと関係があるんだろうな」
直系か、あるいは彼によって直接的・間接的に救われた者の末裔か、それは分からない。
ただ、分かるのは、レイヴンを生かさなければ、自分は「今」に戻ることすらできないこと。
そして、イノが導き出した解決策は、今までの努力を無意味の塵芥に化すこと。
「なら、アイツを救うしかねえだろ」
皮肉に、イノが嘲笑った。
アウトレンジからの攻撃というのにメリットがあるのは分かる。
だが、重量ある得物で敵を屠ってきた彼にとって、その手に握られた軽さはあまりにも頼りなく感じた。
それでも、やるしかない。
矢を手にし、弦を引く。あまり経験がないために、腕が震える。
青いな、と自分でも思い、苦笑する。
限界まで引き、弓の形が湾曲した。
その時、背後に気配が生じる。
「――ッ!」
気配に抱きかかえられた瞬間、視界はがらりと入れ替わった。
眼下には地。眼前には要塞。敵軍から随分と離れた森の中、レイヴンは空間湾曲特有の酔いに目眩がした。
回る目に捉えたのは、昨日の女。だが、その顔は、昨晩最後に見せたものとは違っている。
「悪いが、昨日のはナシだ」
笑み。
目を回す自分の無様さに笑ったのか、と思い一瞬腹立たしくなるが、自分ではなく彼女自身に笑っていることをふと感じ、罵倒に開いた口を閉じた。
その滑稽なレイヴンの様子も見ず、イノは要塞に向きながら話す。
「テメェの存在要素がアタシの存在要素と一致しちまってるんだよ。
だから、生きろ。飽きちまっても絶望しちまっても生きろ。テメェをとことん生かしてやる」
「何を――」
「そろそろ来るな」
レイヴンの質問も遮り、正体の分からない発言をするイノ。
彼は質問を諦め、彼女が見すえる要塞をつられて見る。
すると、砲丸が要塞に直撃した。
丁度、彼が先程いた場所に。
唖然とする彼に、イノが振り返り耳元で囁いた。
「見ての通りだ」
イノの囁きに、唖然を閉じて同意する。
「……ああ。そうだな」
「で、どうするつもりだ? 逃げるか?」
「戦う」
イノが多少驚き、また笑いを取り繕う。
「さすが騎士様ねぇ。やっぱりお仲間は見捨てられない、っていう美しい精神かしら。
でも、それってはっきり言って自殺行為よ? ま、アンタが将来、嬉々としてやるようなコトだけど」
「違う。
国の連中のほとんどは、負けて逃げるより戦地で尽きる方が美徳と考えてる子供ばかりだ。
この場で敗軍を見捨てて逃げても、国はオレを守らない。逆に国を捨てて自らの命を優先した潰走兵として刑に処されるのが妥当だ」
「じゃあ、アンタの理論だと、どっちにしろ地獄行きじゃねえか」
「だろうな。生憎、オレは神様に祈ったことは一度もない。
が、死にはしないだろう」
「……何でだ?」
イノの問いに、彼は即答する。
「オレを生かすと、お前が言ったからだ」
確信の声色と瞳を持つレイヴンを、イノは呆気にとられたように注目していた。
自分を信じている。「今」のように険悪な仲であれば気味悪がるだろうが、今は小さな幸福感が先行する。
「ずいぶんアタシを信用してるじゃない?」
「お前は自分が結んだ約束をすぐに破るか?」
質問に諭しの質問で返され、彼女は黙り、静かにうなずいた。
それは肯定ではなく、納得のもの。
沈黙が場を満たす。
その中で、決意は自然と固まっていき、レイヴンが毅然とした態度で立ち上がった。
「行くぞ。援護はオレに当てるなよ」
「分かってるよ。アタシのテクを舐めんじゃねえ」
そうして二人は、再び戦場に呑みこまれた。
刃は欠け、矢は避け、鎧は凹み、肉は断つ。
敵軍にとってその働きは、血塗られた魔剣が為すもののように思えた。
しかしそれは、屍が持っていたごくごく平凡な大剣でしかなかった。
ただ、施された法力と、振るう者の技量とが、常識とは「少し」逸していただけだ。
大剣は、薄い風の膜に包まれていた。
風は極小域に超高速で吹き荒び、その鋭利さは職人が限界まで磨き上げた業物を遥かに上回る。
更に、それを振るうレイヴンには恵まれた体躯があり、また若くして長く戦場にいた故の経験の豊富さ、日々研鑽してきた剣の技量もその戦果の構成要素に積載されている。
また、イノが敵軍に与える損害も、相手に恐れを抱かせた。
法力という未知の力に薙ぎ倒される仲間たちを見て、敵兵たちは足が竦む。そこに追い打ちをかけるようにレイヴンが詰め寄り斬り捨て、その隙に彼に寄る羽虫の兵士を彼女が的確に潰す。
たった二人。それでも戦果を上げるその二人に、若者の軍は士気が上がり、敵軍は逆に士気が下がっていた。
「――一体、何なんだよ、テメェらッ!」
法力に足を折られた兵士に向かって、イノが唇を舐めながら答える。
「『あの御方』の犬、と――鴉ってとこかしら?」
マレーネが吼えた。
それは、散々弾き尽くしたライブに終わりを告げ、フィナーレの始まりを告げる、楽譜もない衝動の前哨。
それは、音楽を解さない兵士たちにも知れる、最終曲目の始まり。
「……テメェらは、ノイズなんだよ!」
「……曇天の陽にすら劣る雛どもめ!」
その曲は、疾風を思わせた。
旋律を根本から形創るギター。大剣が風を斬り裂き唸るヴォーカル。
それを分類するならば、打ちつけるような疾走をフィーチャーしたスラッシュメタル。
ギターの音色に追随するヴォーカルは獣の如き咆哮で、声そのものではなく声という楽器になりすましている。
ライブパフォーマンスは血肉を伴う激しいダンス。風の波、あるいは風の剣に裂かれた哀れな客は、その芸術の一つとなって恐怖に魅了する。
それだけでも充分にメロディアスで魅力溢れる曲に、今、ドラムが加わった。
低く、大きく。大地の革を力強く打つのは、敵軍が二人に向けて発射した大きな弾丸。
本来大砲という物は集団に対して猛威を振るうものだが、二人の強大さに恐れたのか、費用も効率も全く考えていないようで躊躇いもなく撃ってくる。
しかし、緩やかな放物線を描くその軌道を見切り、二人は難なくよけた。
避けること自体は容易とはいえ、前衛の敵兵に動きを止められた時には確実に直撃し、死亡する。そのリスクを考慮すれば、敵兵を蹴散らすよりも大砲を止めることに専念すべきだろう。
二人は視線を交えて意見を求め、互いの瞳で同意を知った。
同時に地を蹴る。砲丸が二人の残像を射貫いた。
迫る二人を仕留めようとして、いくつかの兵士が刃を向ける。
イノはレイヴンに襲いかかろうとする兵士を弾く。
レイヴンはイノに遅いかかろうとする兵士を斬る。
行く手を阻む兵の群れは例外なく倒れ伏し、二人が通った場所には屍の道ができていた。
「――うああぁぁぁぁぁぁ!」
恐慌状態に陥った兵が、折れた槍を捨ててレイヴンに突っかかる。
無論、兵を容易く断頭させ、絶命させた。が、突っかかった際の慣性で兵の屍が彼によりかかり、重しとなった。
「くっ……」
空気の歪みの音を聞き、空を見上げる。
逆光でより黒く見える砲丸の牙が、真っ直ぐにレイヴンに向かっていた。
兵を捨てようとする。が、間に合わない。
ここまでか――?
諦念が彼を突き落とす。しかし、
「テメェを生かすって、約束しただろ!」
イノが砲丸を弾き飛ばした。
大きく振り上げた右手が衝撃波を描き、波は砲丸へ直進する。砲丸はその力に軌道を逸らされ、レイヴンのすぐ横に埋もれた。
「すまない――」
そう言い、レイヴンはイノの死角から襲おうとした兵を、恐るべき速度で接近してから斬り捨てた。
「――だが、これで借りはなしだ」
ざし、と大剣を地面に刺し、彼は彼女に背を預ける。
「いいぜ。わざわざ千年以上も越えて借金取りはしたくねぇからな」
マレーネを構え、彼女が応える。
「さあ、そろそろ終わりの終わりね」
ゲインを引き上げる。
音楽に疎い者でも、その音律はこれまでの仕上げにかかるものだと知れた。
速度を感じる。あらゆる音を凝縮し、指向性のある爆発が脳を奮い立たせ、それでもなおクールダウンさせる。
音量は激しく、大きく増していく。それとは反比例し、敵軍は形骸と呼べるまでに縮小していた。
法力の、大剣の、刃が軍を斬り刻む。
集団の利より自己の命を優先し、逃げようとする愚者は死の旋律で耳から血を噴く。
果敢に捨て身を実行する兵士は、死神の鎌の如き無慈悲な大剣により胸を貫かれる。
そうして、敵軍は削られてゆく。
奥深くへと侵攻し、ようやく見えたのは老将と大砲。
二人は歓喜を表情に灯した。
その二人の思惑を知った老将が、何事かを叫ぶ。完全に傍らの仲間と戦場とに同化した二人には、興奮で言葉の意味が分からない。
言葉は敵兵を寄せ集め、老将と大砲を護る壁となる。
手に持つは槍。ファランクスの形状を取るその壁は、二人の目にはとても薄く感じられた。
「無駄だ!」
二人のどちらが叫んだ言葉か、当人すら分からなかった。
兵が織り成す槍襖を、イノが法力で引き剥がす。
素手の兵の首を、レイヴンは大剣で掻き斬った。
あらわになった老将と大砲が、顔面と砲口を二人に向けていた。
レイヴンが大剣を老将に向けて振りかぶり、
イノがマレーネを大砲に向けて掻き鳴らし、
ステージは、一際大きな旋律で幕を閉ざした。
軍隊というものは時に生き物と同質のものとなる。
知能を司る頭を失えば死骸も同然だ。それでもなお生きていることなど、極一部の例外を除いて、無い。
そして、大将格たる老将が亡くなって、敵軍は潰走状態に陥っていた。
追うことはない。ただ放っといても、さしたる脅威にはならないだろう。
レイヴンは法力から解放され、重量を取り戻した大剣を手放し、忘れていた疲れにどっぷり浸った。
血だまりにすら気もとめずに腰を下ろし、心底からのため息を吐く。
「――ま、結果オーライってヤツね」
イノは汗も垂らさず疲れも見せず、立ったままレイヴンを見つめていた。
「アタシの欲求不満も解消したし、多分コレで帰れるだろうし、あとはもう、ここに用事はないわ」
確認し、イノが時間跳躍に精神を費やす。
レイヴンは薄れていく彼女をじっと見つめ、消え去る間際にぼそりと呟く。
「感謝する」
――あの女は、本当に訳が分からない。
自室のベッドの上で、「今」のレイヴンは天井を見ながら思想を巡らした。
いつも通りの嘲りの言葉一つを投げかけただけで、十の罵倒を返すような事例など、今までなかったはずだ。
膨大な記憶の中から、漠然とそう結論づける。しかし、引っかかることもある。
イノが後ろで隠していた物は、なんだったのだろうか?
まあ、恐らくは、「あの御方」に渡す物だったのだろう。その中に媚薬の毒を忍ばせはしないかと思い、隙を見て検分してやろうか、とも思う。
コンッ、コンッ。
控え目なノックが二度。
「あの御方」だろうか? そう思い、口を硬く結んでドアを開く。
「よう」
イノ。
レイヴンは厳粛に用事を尋ねようとしたところを閉口させ、苦い顔で彼女を睨んだ。
「……何用だ」
素っ気なく尋ねる。するとイノは、彼と同じ顔をして暴言を吐くより前に、背後に回していた手をレイヴンへ突き出す。
「今日はテメェのための日だ」
ラッピングすらされていない木箱をレイヴンの手に無理矢理握らせ、イノはそれだけ言って去ろうとする。
どう言うべきか。そう迷い、電撃のように思い出したのは、
「すまない」
謝罪の言葉だった。
その言葉に、ぴたりとイノの足が止まる。
「……最初に貴様と会った時に、怒らせた言葉を、また私が言ったな」
「……ああ」
「それを思い出した。……すまなかったな」
「……ああ。学習しねぇな。テメェは」
イノが言い、沈黙が落ちる。
彼女は振り返り、「初めて」レイヴンに、純粋に笑いかけた。
「待つからな。
例え忘れ去っても、千年経っても、思い出すまで。――お返しを」