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千と十七の夜



 そろそろ宿をとるべきだと、視界の暗さが提案した。
 陽を飲みこんでいる山はまだ橙色に染まっているが、その反対にある空腹の山は黒い塊として鎮座している。
 一番星を見上げながら、街道を歩く。そろそろ村に到着する頃合いだ。
 空から地へと視線を移すと、遠くにぽつんと村があった。
 これで宿がなければどうしようか、と悩んでみたが、村の男でも誘惑して泊まりこめばいいか、と自己完結する。
 そんなことを思いながら、イノは足を運んでいた。




「そう、はるばるロンドンからいらしてきたのですね」
 宿を経営する柔和な女主人は、どこから来たのかと質問して得た答えを繰り返した。
 イノは表面上はどうということのない顔をしているが、心の内では大いに舌打ちをしている。
 男であったならば、誘惑して宿代をタダにしてもらえる可能性があるというのに、女となればその可能性は限りなくゼロに近い。
「でも残念ながら、今晩宿はいっぱいで……」
 その柔和な顔を申し訳なさそうに崩しながら、イノに深々とお辞儀をする女主人。
 イノはその言葉を聞いて、ふと内心で打算する。
「ねえ、それだったら相部屋っていうのはどうかしら?」
「え?」
「迷惑をかけないようにするから、いいじゃない」
「でも……泊まっているお客様は、全員男性のかたでして……」
 女主人から引き出した情報に、イノは内心ほぞかんだ。
 男と相部屋になれば、もしかすれば男に宿代を払わせることができるかもしれないし、「お遊び」もできる。
 そのような邪心を表に出さず、イノは女主人をさらに押す。
「アタシはそういうの気にしないから。大丈夫よ」
「でも……」
「そ・れ・に、こう見えてもけっこう法力を使えるのよ。
 もし襲われたら、ガツンといけるんだから」
「…………」
 女主人はしばらく困惑した表情でいたが、あきらめたようにため息を吐いた。
「分かりました。お客様にたずねてみます」
 そう言うと、女主人が宿泊部屋である二階に上がり、二言三言がわずかに聞こえ、下りてくる。
「よろしいようです。では、案内いたします」
「アリガトね♪」
 イノが弾んだ声で応えてから、女主人の後をついて行った。
 木の階段を跳ねるように上がり、階段の脇にある扉を女主人がノックするのを楽しげに見つめる。
「お客様、相部屋希望のかたを連れてきました」
「――ああ。分かった」
 イノがその声に、ん? と疑問符を浮かべたが、扉が開けられ声の主と顔を合わせ、その疑問符がかき消される。
「…………」
「…………」
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
 声の主とイノが沈黙して対面している間に、女主人は一礼してから一階へ下りていった。
「……で、」
 イノが、一気に疲れた様子で声の主に呼びかける。
「どういうコトだ、レイヴン」
「それはこちらが聞きたいな」
 フン、と鼻息をあらげて、レイヴンは扉の横にある壁に寄りかかった。
 濁った白髪が、棘のない額にだらりと垂れ下がっていた。いつものマントとスーツではなく、黒いシャツに黒いジーンズを着用している。
 そのレイヴンはイノを見下げ、不機嫌な顔を保ったまま口を開いた。
「私は安穏と生きたいというのに、どうして貴様はことごとく邪魔をするのか。まったく理解に苦しむ」
「したくしてしたワケじゃねえよ。
 それより、何でいっつも野宿してるテメェが今日に限って宿をとったんだ? 少しは身分ってモンをわきまえろ」
「今日の昼、盗賊が襲ってきて返り討ちにして金を得ただけだ」
「そうかよ。
 じゃあとっとと部屋から出ていけ。テメェはいつも通り野宿してればいいんだよ」
「誰に物を言っているのか分からないようだな。
 この部屋は、『私が』借りた。『貴様が』じゃあない。
 つまり分かるか? この部屋の現在の所有権は『私』にある。――ああ、済まない。隠語と罵倒しか頭にない貴様には少々高度な論理だったか」
「ハァ? テメェこそバカじゃねえのか?
 泊まれる権利は人間様にしかねーんだよ。雑菌溜めこんでる汚ねえカラスはさっさとゴミでも漁ってろ!」
「人の形だけはしている塵芥に言われるとは心外だな。そもそも生物ですらない有害な物体に罵倒されるとは、私の方まで格が落ちる」
「勝手に落ちてろ! この根暗野郎!」
「これ以上口を開くな。黙れ無能女」
「うるせえ、喋る死体が!」
「白痴の屑」
「キモカラス!」
「畜生以下」
「変態!」
「牛女」
「鳥頭!」
 会話のレベルが下がっていくのと反比例して、互いの声量は上がっていく。
 そうして、幾度か言葉のキャッチボール――というよりはドッジボール――を繰り返すと、罵倒のループを断ち切るように第三者からの声が上がった。
「お客さん!」
 階段から聞こえたその声に、イノとレイヴンはそちらに向き、そこにいた女主人が湿った目で言い放った。
「五月蠅くするんだったら、出ていってくれませんかね」




 くしゃみが、広大な夜空に響き渡る。
 イノは鼻をすすりながら、拗ねた様子で寝返りを打った。打ったところで、寝心地がひどく悪いことに変わりはない。
 砂利が点々とある荒れ地よりはマシであるが、草原であると葉先が肌を始終突っつき、ひどくむず痒い。
 顔をしかめて再び寝返りを打つ。その運動で体は着々と乳酸を貯めこみ、不快感を増してくる。
 むくり、とイノが起き上がり、痒い太ももを掻きつつ目線を上げた。
「何だ?」
 その上げた先にいたレイヴンが、こちらを見下げて声を出す。
 レイヴンは草原ではなく、大木の太い枝に身を預けていた。見るからに不安定そうだが、危なげな様子を見せないところを見ると普段から枝の上で寝ているらしい。
 イノは「テメェより下にいるコトが腹立たしい」と言って一回登ってみたものの、寝ようとするとすぐさま転げ落ちたために諦めて草原で寝転がることにしたのだ。
「何でもねえよ。痒くて眠れねえだけだ」
「何でもあるじゃあないか」
「うっせえ。ンな細けえコト気にすんな」
 疲労と眠気からか、イノの反論には勢いがない。
 せめて何か安眠できるような道具はないものかと思案していると、ふと吹いた風に乗ってニィ、ニィ、と愛らしい声が聞こえた。
「……これ、猫か?」
 そう言ってイノが立ち上がり、声のした方向へと歩き出す。
「あまり遠くに行くな。厄介な輩に見つかる可能性がある」
「遠くじゃねえよ。声からして近い……っと、」
 ニィ、と足元から聞こえた声に目を向ければ、想像通り仔猫がうずくまっていた。
 イノがしばらくじっと見ていると、人が見つかって安心したのか、ゴロゴロと喉を鳴らしながらブーツに身を寄せ、彼女を潤んだ目で見上げる。
 思わず微笑むイノの顔を見て、レイヴンは何とも言えない顔でつぶやいた。
「貴様も、そういう物には笑いかける情もあるのだな」
「まあな」
 イノが仔猫に手を差し出して抱きかかえると、レイヴンに向かってこう続けた。
「猫の毛皮って、高く売れるしよ」
「…………」
「そういや、動物の毛皮って生きたまま剥ぐらしいな」
「……珍しく愛護精神を見せたかと思えばそれか……。
 貴様らしいと言えばそうだが、人道的な思考を持つ事はできないのか……?」
「人道的に生きてどうするってんだ?
 どうせなら好き勝手に生きるほうが楽しいじゃねえか」
 そうのたまうイノの腕にあっても、仔猫は未だ嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。
「まあ、今すぐ金には替えねえけどよ。
 柔らけーし、枕にでもすればぐっすり眠れそうだ」
「猫が潰れるぞ」
「そうか。んじゃかっさばいて毛布にするか……いやシーツか?」
「どちらも体表面積的に考えて無理だな。革を繋ぎあわさなければせいぜい赤子用だろう」
「革を繋ぎあわせる――」
「……そこで何故私に目を向ける?」
「いや、テメェの革だとクサいし汚いからムリだな」
「あきらめてくれた事自体は結構だが、その侮辱は聞き捨てならん」
「事実だろうが。その上クセェのは『背徳の炎』公認だろ?」
「では汚いの部分はどうだ」
「ウジ湧きそうな体してるだろうが」
「湧いていない。
 一ヶ月くらい岩に潰されて自虐していたりすれば流石に湧いたが、普段は清潔にするよう心がけているぞ」
「……マジで湧かれたのかよ」
「……本気で言ってなかったのか?」
『…………』
 しばらくは互いの顔を信じられないように見つめていたが、この行為に生産性がないと悟ったイノが視線を逸らす。
 それから猫に目を留めて、つややかな毛を撫でつけて暇を潰す。
 レイヴンは先程よりも形容しがたい顔でその様子を眺めていたが、イノの体を掻く頻度が高くなっているのに気づいて、ふと訊いてみた。
「まだ痒いのか?」
「ああ。なんかどうにも痒い。このままだと眠れねえな」
「その猫に、小さな虫が貼りついていないか?」
「そうだな。なんかやけにピョンピョン跳ねるぞ」
「……貴様は、本当に頭が足りていないな」
「何だよ。さっきの続きか?」
「その虫、ノミだぞ」
 さっ。
 イノの血の気が引く音を、レイヴンは確かに聞いた。
 彼女は確認のために慌てて仔猫の体から虫を採取し、目を凝らしてよく見てみる。
 うぞうぞと動く足、細かい毛、焦茶色の小さい体……。
 完全にノミだ。
「――この疫病猫がああぁッ!」
 イノが叫ぶと、それに脅えた仔猫を片手に持ち、投擲の構えをとった。
 その目標が自分だと知ると、レイヴンは同じく叫び返す。
「生き物を人に投げつけるな!」
「アァ!? このアタシを不快にさせるようなクズをどう扱おうが、文句は出ねえだろうが!」
「それは私も含めているのかッ!?」
「当たり前だろうが! 二匹まとめてくたばりやがれ!」
 宣言と共に飛んできた仔猫に、レイヴンは回避しようと身じろぎをする。
 しかし、仔猫は空中で体勢を整えるために体をひねり、それがレイヴンの計算を狂わせた。
 べしゃ、と仔猫が軽くぶつかる。
 あくまで「軽い」衝撃だったが、回避を前提としたレイヴンの体はその衝撃にあっさり崩れ、重心を元の位置に保とうとする努力も虚しく木の枝から墜落した。
 ニャアー、と抗議の声を上げつつ仔猫が去っていき、いまだ体を掻き続けるイノと草原に転がるレイヴンだけが残る。
 やがてレイヴンが起きあがり、自分の体を跳ねるノミを嫌そうに見つめていた。
「くそっ、もう刺されているぞ……」
「そっちはまだマシだろ。こっちはもう十個以上も刺された痕があるんだよ」
「貴様が不用意に野良猫を抱いたせいだ。同情はできん」
「テメェに同情されるほど落ちぶれてねぇ」
 互いに減らない口を叩き、とりあえず黙々とノミ取りに専念する。
 ノミを取っても刺された痕は取れずに残る。見た目が悪くなるのも辛いが、非常に痒いのが一番辛い。
 取り終わった後は、両手を駆使して全身を痛くなるまで掻きむしった。
 ぼりぼりという音の中、掻きすぎて痛かったのか、レイヴンの方から「……くうっ……」と嬉しそうな声が聞こえる。
「……なあ、その変態嗜好どうにかなんねえのか?」
「なる訳がない。そもそも、これがなければ私はどう生きていけば良いのだ?」
「静かにくたばっていりゃいいだろうが」
「くたばれないからこうして生きているのだろうが。貴様は考えを巡らすという事を覚えておいた方がいい」
「フン。それより痛いのが気持ちいいとか、いったいテメェの体はどういう仕組みしてんだよ」
「身体の構造云々の問題じゃあないだろう。まだ痛みについて分かっていない青二才の時から、ずっと痛みは同じ感覚だ」
「じゃ、なんだ?」
「心理的な部分が違うのだろう。
 痛みは死を想起させると同時に生の脈動を感じさせる。生きるための警鐘、そして死への階段……。その高尚なる感情を抱かせる痛みを、精神的な位の低い貴様には分かるまい」
「ンなモン、分からなくて結構だよ」
「ああ。貴様に分かられても、私には一切合切得る物がないからな」
 それから、沈黙の帳がおりる。
 レイヴンは木によじ登り、枝の根本に腰をおろして幹に背を預けた。
 眠ろうとして目蓋を閉じた時、イノが再び声をかける。
「じゃあ、痛み以外もちゃんと感じるワケだな」
「そうだ。だが、普通の五感では私を奮えさせる事はできない」
「けどよ、痛みってそもそも触覚の一部じゃねえのか?」
「……そうだな」
 何度目かの沈黙に、レイヴンが微睡みを得ようとした瞬間にイノが何度目かの声を出す。
「チッ、騒いじまって眠れねえじゃねえか」
「それは貴様だけの責任だ。私は関係ない」
「もう今夜は眠れねえよ」
「繰り返さずとも分かっている」
「眠れねえ」
「……だからっ」
 五月蠅い、と一蹴しようとして勢いづき、目蓋を開けた。
 目の前に、イノがいた。
「……なっ、」
 思わず唖然とするレイヴンの口を、マニキュアで彩られた指で塞ぎ、イノが彼の目を覗きこむ。
「女が眠れねえって言ってんだよ。
 その意味分かってんのか? バカだからか?」
「……どういう、つもりだ?」
「どういうもこういうもねえだろ。千年も生きてるテメェが、十五のボウヤにも分かるコトを分からねえとかほざくんじゃねえぞ」
「……だが、貴様は私を、」
「嫌ってるってか?」
 先読みしたイノの言葉に首肯する。
 訳が分からない、といった様子のレイヴンを見て、イノは笑った。
「女はな、相手を憎みながら抱ける生き物なんだよ」
「……落差が大きいな」
 ごく純粋に、浮かんだ言葉を吐くと、イノが悪戯じみた笑い声を出した。
「ギャップは相手を落とすテクだしな」
「だが、結局は表面上の好意だろう?」
「アタシは好き勝手にやれるなら何だってやるさ。自分だって裏切ってやるよ」
 睫毛を濡らし、イノがレイヴンと目を合わせる。
 今度の沈黙は、重かった。
 それは霧のような冷たい沈黙ではなく、甘露をまとった沈黙だった。
 そして、イノがレイヴンの頬に手をかける。
 レイヴンはいつものような抵抗は見せず、ただイノの挙動に注目していた。
 イノの顔がゆっくりと近づく。目蓋は閉じられている。
 レイヴンもまた目蓋を閉じた。
 その瞬間。
 べしゃ。
 レイヴンがその違和感に気づいて目蓋を開けると、そこは一面の緑だった。
「……は?」
 混乱しているレイヴンを見下げ、イノは枝から足を垂らしてぶらぶらさせながら嘲笑する。
「――くっはははははははッ!」
 レイヴンが顔を上げる。どうやら目蓋を閉じている間にイノにはたき落とされたらしい。
 思いっきり馬鹿にした表情で、イノが言う。
「もしかして、テメェ、アタシがマジにヤると思ってたのかよ?」
「……このっ!」
 怒りから拳を振り上げるレイヴンの上に、イノが飛び降りる。
 まだ体勢が整っていなかったため、レイヴンは回避できずにイノの落下の衝撃を一身に受けることになってしまった。
 レイヴンが好むはずの痛み。だが、それに快感は感じない。
 思いっきり屈辱を感じ、レイヴンは身を起き上がらせてイノを殴ろうとする。
「貴様っ、今度こそ許さんッ! 私を無為に謀り恥辱を味わわせた責任は取ってもらうぞ!」
 レイヴンの腕からひょいひょいとイノが逃れ、やがて追いかけっこが始まった。
 しかし、それは単なる追いかけっこではない。空間跳躍の法力を無駄に駆使した追いかけっこである。
 ギィン、ギィンと独特の音を響かせて、あちらでイノが、こちらでレイヴンが、姿を一瞬だけ見せてすぐに掻き消え、不可視の破壊の応酬を繰り返す。
 やがて両者は同時に姿を現し、法力を酷使したせいで蓄積された疲労を癒やすため、ばったりと草原に倒れこんだ。
「……このっ……鼠、め……貴様のせいで、『背徳の炎』に感知されたらどうするつもりだっ……」
「……て、テメェを置いて、……時間跳んで逃げてやるよっ……」
「その……体力は残っているのか……? 今でも……仕留められそうだが……」
「アタシを……舐めんじゃ、ねえよっ……!」
「どうかなあ……? 客観的に見て、余裕がないようだが……」
「うっせえ……とにかく、できんだよッ……」
 しばらく草原に寝転ぶ。葉先は気にならなかった。
 心地良い疲労感に包まれ、目蓋が自然と重くなる。
 このまま眠りにつけそうだが、もし本当に「背徳の炎」に会った場合の事を鑑みて、イノはレイヴンに顔だけ向けた。
「そんなに……『背徳の炎』に会いたくねえなら……見張りしろよ……」
「……言われなくとも……そうする……貴様であれば、勝手にほっつき歩くだろうからな……」
 レイヴンは上半身だけを起こし、辺りを見渡せるような姿勢をつくる。
 深いため息が、静かな草原にやけに響いた。


 数十分も経たない頃に、イノは眠りに落ちた。
 規則的な寝息を立てて熟睡しており、心地良さそうにしている。
 重い目蓋を必死に開けているレイヴンはそんな彼女を見て一瞬だけ殺意を覚えたが、このような女郎だろうと「あの御方」は必要としているのだから、と自分を鎮めた。
 それから、眠気から逃れるために、おもむろに針を取り出して脚に刺す。
 微弱ながらも確かな痛覚に、意識が覚醒した。
 一時的な役目を果たした針をしまい、長く細く息を吐く。
 そういえば、ミニオンを見張りにしても良かったと今頃になって気づいた。
 しかし、眠気は去ってしまった。また眠くなってきた頃に見張りにしようと思い、レイヴンはふとイノに目を留める。
 今でも幸せそうに寝ている。こうしている間だけは、生意気な態度は見せようとはしない。当たり前だが。
 いつも寝ていれば良いのだが、と小さく愚痴り、イノの様子をじっと見つめる。
「……んっ……」
 寒そうにぶるっ、とイノが震え、身を縮こませる。
 夜風に露出した肌が晒されているのだから仕方がない。レイヴンはやれやれと首を振り、荷物からマントを取り出しイノにかけた。
「…………」
 そうすると、イノはマントを小さく握り、穏やかな笑顔を浮かべる。
 そのわずかな表情の変化に、レイヴンはなぜか目を奪われた。
 じっと、そのまま見つめる。変化はない。
「…………」
 黙って、レイヴンはイノに近づく。
「……本当に、寝ている時だけは生意気じゃあないな」
 苦笑し、彼は彼女に顔を近づける。
 目を伏せ、ゆっくりと近づく。時間をただただ消費して、距離は次第にせばまっていく。
 その時。
「……くっ……」
 イノが、ぴくりと痙攣する。
 気づかれたかと思い、レイヴンの動きが硬直する。が、イノは動かない。
 ……いや、よく見ると規則正しく吐いていた息が、不自然に早くなっている。それに、頬が少しばかり紅潮している。
 気づいているのに寝たふりをするイノから、レイヴンが離れる。
 自然に微笑が浮かび、それから、つぶやく。
「……私が、お前の思い通りに動くと思っていたか?」
 微笑を苦笑に変えて、レイヴンは続けた。
「口付けをしようなどと、本当に思っていたのか?」




 気づけば、日はもう昇っていた。
 結局あの時から一睡もしていない。
 あの時――。
「あーっ、クソ……」
 思い出すだけでもこっ恥ずかしくなる。
 柄にもない事をしたと後悔するも、その奥には淡い喜びが隠れていた。
 それを自覚している。だからこそ、恥ずかしい。
 自分を軽く打ち、その事を記憶から掻き消そうと必死になった。
 でなければ、顔に出る。
「……ククッ」
 いや、もう出ていたらしい。
 隣にいたレイヴンが頬を紅潮させるイノを笑い、更に赤くなるイノは躍起になって拳を振り上げた。
「テメェ! なにがおかしい!」
「いや、別に何も。ただ……」
「ただ?」
「お前も可愛い所があるな、と」
「――テメェ、絶対殺す! 今のに鳥肌が立ったぞ!
 つか、真顔でンなコト言うな! 気味が悪ぃ! 冗談でも本っ当に気持ち悪ぃぞ! 死ね! 変態! バカ!」
 涙目にさえなっているイノを見て、レイヴンが笑い始める。
 混乱した怒声と楽しそうな笑い声が、早朝の澄んだ空に落ちていった。



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