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嵐の陽



 雷鳴が、主なき古城に反響する。
 豪雨が容赦なくステンドグラスに叩きつけられ、ドラムのような音が連続した。
 酷いな、と誰に言うでもなく囁いた声に、肯定するような雷鳴が重なる。
 窓際で外の様子を見て、今夜は野宿ではなくどこか屋根の下で寝ようという自分の英断をひそやかに自画自賛する。でなければ今頃濡れ鼠だ。
 刻限は深夜であり、埃をまとったベッドに一旦寝たものの、この雷鳴の大音量を浴びせられて起きてしまった。
 目は雷光に射抜かれて眠気を手放し、体は束の間の休息にも関わらずもう疲労感を消費した。
 つまるところ、寝ようとする気は全く無い。
 不健康だと愚痴るものの、そもそも自分にその心配は要らないのだと気づいて苦笑した。
 彼は不死者だ。
 永く生きている事を暗示する白髪を頂き、病的なまでに青い肌で身体を構成し、不死性を強調する頭部の棘は明らかに脳を貫通していた。
 その棘でこつこつと窓を叩き、どうしたものかと思案する。
「退屈凌ぎ」にすら退屈している現状、この退屈もまた打開する術など特に無く、ただぼうっと外を見ていた。
 相も変わらず鳴り響く雨と雷の轟音に耳が慣れ、ほんのわずかな音も聞こえてくる。
 城内で、雫が床に弾かれる音にふと気を取られ、窓から目を離して天井を見た。
 その頬に、雨漏りの雫が絡みつく。
 古城であるから、手入れがされていないのは当たり前だろう。ため息を吐いて頬の雫をぬぐい、窓に再び目を向けた。

 そのわずかな隙に、窓に一瞬映った赤い人影は消えていた。




 城内で、水音以外の音がした。
 窓から目を離し、耳を澄ます。
 反響する音。それはゆっくりとこちらに近づいている。
 ブーツの音だ。
 彼は舌打ちをして窓から離れ、手を軽く掲げて召喚法術の力場を整える。
「闇の抱擁を……」
 つぶやき、手に浮かんだ力場から鴉型のミニオンが召喚された。
 鴉は小さくガアッ、と鳴いた後、すぐさま翼を羽ばたかせ音源へと向かう。
 鴉と視界を共有させ、目に映るのは暗い廊下。時を経てくすんだ絨毯。玄関の大きな扉。そして――。
「――――!」
 炎。
 音源を視界に収めた刹那に放たれた業火が、一瞬にして鴉を燃やす。
 しかし、その音源の正体は掴めた。これだけの収穫があれば充分なのだが、
「不味いな……」
 攻撃されたという事は、使役する鴉に気づかれてしまったという事だ。
 それも、その使役者が誰かも分かる相手に、気づかれてしまった。
「流石は『背徳の炎』と言った所か。この湿気た中であれだけの炎を出せるとは、全くもって末恐ろしい」
 足下に広がる雨の残骸を蹴り、水を巻き上げる。
 上がった水がばちゃりと床に落ちる音が響いた。
 その音を囮にし、彼は法力を駆使して空中を滑るように移動する。
 音を立てずに場所を変え、囮に食いつかせた相手を混乱させるためだ。
 そうしてから、感知できないくらい離れた地点で空間転移を行おうと画策し、廊下の角を右に曲がる。
 確か、この城は五階建てだったはずだ。その一番上の階ならば、一階で「背徳の炎」が自分を探している限りは感知されないだろう。
 そう思い、曲がった先にある木の階段に足をつけずに登り、その近くにある階段を再び登った。
 登り続け、ようやく五階に辿り着くと、すぐさま法力を展開する。
「座標は……トリオラがいいか。
 あそこならば不審に思われるような事もあるまい」
 位置を確認し、綿密に計算し、幾つかの過程を消化してようやく発動に取りかかろうとした刹那、
 天井から垂れた水が、熱湯のように彼の体を蝕んだ。
「……ッ!」
 苦痛に震え、思わず法力を手放し、霧散させる。
 レイヴンは顔をしかめ、近くの水たまりに触れる。が、先程のような熱が感じられない。
 ――どういう事だ?
 思考がその一点で停止し、そこから先へ進まない。
 ただただ無為な時間が躊躇に費やされ、転移の猶予が削ぎ落とされていく。
 ようやく彼が早急に何らかの対応をすべきだと駆り立てられたのは、階段を登るブーツの音が聞こえ始めた時だった。
 こうなっては仕方がないと、手近な窓を開け放つ。
 轟、という唸りが耳元をかすめ、強風と共に雨が城内に侵入してきた。
 窓枠に足をかけ、逃げようとする。が、背後から迫り来るブーツの音に、自分の行動が遅かった事を悔やみながら振り向く。
 そして、無理矢理に嘲笑を浮かべて、自分が相手より優位に立っているかのように振る舞った。
「久方ぶりだな、『背徳の炎』。
 貴様を待っていたつもりは無かったが、会うまでの数ヶ月は実に長かった。
 貴様はどうだ?
 各地のギアを殺すために旅をしているはずだというのに、国家に保護されたギアに手もつけられず、ギアでも何でもない兎を追いかけ回す『充実した』日々は、長かったか? 短かったか?」
「……追いつめられたヤツが言うセリフか?」
「追いつめられた? それは傑作だ。実に笑える。ああ、笑ってやるとも」
 ククッ、と口を閉めた状態で笑い、表面上の余裕を見せびらかすように両手を広げる。
「私はいつでも逃げられるぞ。指を三つ折り曲げるよりも早く、空間転移を為す事ができる」
「だが、それは感知できる」
「感知したとしても、貴様は生命活動が停止するような場所にはいられない。
 私は水深千メートルもある深海に行こうと思えば、この不死の身を活かして転移する事ができる。それを貴様は追いかけようとするのか?」
 ソルは黙って封炎剣を構え、炎を刀身に纏わせた。
「なら……転移する前に殺すまでだ」
 レイヴンは迫り来る炎を避けるため、窓から身を投げ落下する。
 眼前で炎の柱が立った。
 炎は窓から吹き荒び、レイヴンの顔を一瞬だけ真っ赤に照らす。
 その威力を恍惚として見つめていたが、また残念そうな表情も浮かべていた。
「やはりこの天候では最大威力を発揮する事は不可能か。
 できれば限界まで焼死するくらいに浴びたいが、ぬるい炎には興味がない」
「勝手に言いやがる……」
 焼けた窓から顔を出し、ソルは舌打ちする。
「だが、炎じゃ分が悪いのは確かだ」
 その時、強風は意思を持った。
 下から火傷する程に熱い颶風が吹きつけられ、レイヴンの身が浮かび上がる。
 そして、自分の身が吸いこまれるように窓へと向かうのを知った時、レイヴンは苦い顔をしてその風を制御しようとした。
 しかし、風はそれを拒否してそのままレイヴンを窓へと押しこんだ。
 愕然とするレイヴンの胸倉を掴み、ソルが右手を握りしめた。
「砕けろ」
 殴打。
 頬が破れるような衝撃が顔に響き、脳が揺さぶられ、一瞬だけ意識が飛ぶ。
 白濁した視界に再びソルが映り、すぐさま二撃目が襲いかかった。
 顎から頭頂にかけて震動が走る。ゴギリ、という嫌な音に鳥肌が立ち、顎の骨が粉砕された事を自覚させる。
 胸倉の拘束が解かれ、思わず体が床に崩れ落ちる。そこに追い打ちをかけるように脇腹に蹴りを入れられ、折れたあばらが内臓に押しつけられた。そのうち一本のあばらは肺を刺し、内部に血溜まりをつくらせた。
 足首の関節に、鋭いストンピングが叩きこまれる。骨と骨との緩衝剤である軟骨が砕け、皮膚が破れ、赤い血を纏った白いアキレス腱を露呈させる。
 更に蹴る。重さと速さを載せた蹴りは次々とレイヴンの体に突き刺さり、嬌声する暇も与えない。
 絶え間なく続く苦痛に快感を覚える。しかし、「背徳の炎」に圧倒されているという状況に、屈辱も感じていた。
 ソルが蹴りの威力を増すために法術を紡ぐ。その一瞬の隙を感じ取り、レイヴンは脊髄から即席の法術を編み上げる。
「――ガァァァァアアアアァアアアァアァッ!」
 逆曲がりの腕をソルに向けて伸ばし、痰と血がわだかまる喉を無理矢理震わせ、法術は発動した。
 鴉が飛び立とうとする湖面のように乱れた精神を具現して、ソルとレイヴンの間に方向性も指向性も全くない風が吹き乱れる。
 両者の距離は風で引き伸ばされ、レイヴンはやっと再生された関節を動かし、ソルに背を向け必死に駆けた。
 廊下を曲がった瞬間に、光と熱と轟音が背後で溢れる。
 思わず総毛立つ体を抑えつけ、走る事に専念した。
 深海に転移するという先程の狂言が頭をかすめたが、苦痛から解放され冷静になりつつある頭は否定に振られる。
 確かにそれ自体は可能だが、その後が問題なのだ。
 深海などに転移すれば、たちまち水圧で体は苦痛を食み、再び転移の法術を組むための集中は霧散してしまう。
 自力で海上に上がろうとしても、鼓膜が破れ、三半規管は意味を失くしてしまう。視覚で周囲を確認しようとも、深海には光が全くなく目視は不可能。つまり、上へと向かっているつもりが、より下へと潜ってしまう可能性がある。
 その手段が使えないとすればこの状況をどう打開すべきかと己に問い、その答えを行動で示した。
 足を止め、振り向きぎわにソルへと手を伸ばす。
 それを起点にレイヴンは強風を巻き起こした。
 子供一人は簡単に飛ばせる風力だ。ソル相手では流石に飛ばせはしないが、直立するだけで精一杯という程度で、足止めには最適である。
 つまり、足止めをして感知されないほど距離を伸ばし、改めて転移を取り計らうのだ。
 しかし、見えないはずの空気の塊を見ていたかのように、ソルは不敵に笑みを作った。
 その奇妙さに、嫌なものが背筋を走る。
 風がソルに到達するまでに要する時間が過ぎ、レイヴンはそのタイムラグから彼が行った事を察知し、慌てて防御の構えを取った。
 肺を溶かすような熱風が、レイヴンに襲いかかる。
 これは単純にレイヴンの風を反射した訳ではなかった。
 レイヴンの風を上回る風力で、ソルが風を生み出した事になる。
「……貴様っ」
 ぎりっ、と奥歯を噛み、レイヴンはソルに初めて苦渋の顔を見せた。
「こうでもしねぇと、テメェのクソみてぇな余裕面が崩れねえだろ」
 ソルは、余裕がなくなった彼の顔を見ながら、静かに語り始める。
「法力には、五つの属性がある。炎、雷、水、気、そして風。
 個々人に与えられる属性は基本的に一つだけ。
 だが、多くの属性を操るヤツもいる。それがオレだ。
 ……どうだ? テメェの得意な属性が、それを不得意とするヤツに圧倒される心地は」
「貴様……貴様ッ!」
「別にオレはそういう『趣味』じゃねぇが、今までさんざテメェに手を焼かされた仕返しだ」
 言いつつ、ソルは封炎剣に「何か」を纏わせた。
 攻撃を予感し、レイヴンは回避するために空間の狭間に隠れ、存在そのものを隠蔽させる。
 が――。
 ソルは構わず踏みこみ、レイヴンのいた空間を封炎剣で斬り裂いた。
 腕に伝わるブツリ、という感触と共に、レイヴンが姿を現す。
 その右肩から先を無くした状態で。
「――ッ!」
 幾千の針に右腕全てを貫かれたような激痛が、声なき悲鳴となって脳に響き渡る。
 ソルは全身に返り血を浴び、顔についた血をジャケットの袖で拭った後、封炎剣に纏わせた「何か」の正体を語った。
「吸血鬼も殺す『気』の法術だ。どうやら、テメェのような人外にも効果はあるようだな」
「クッ……!」
 貧血を起こし、薄暗くなりつつある視界の端に、再生が起こる気配のない右肩が映った。
 めまいや虚脱感でふらつく足に気力をこめ、レイヴンはソルから離れようとする。
 ソルは後頭部にある棘を右手で持ち、レイヴンを制止させた。
「離せ!」
 レイヴンは振り向く事もできず、暴れてソルの手を振り解こうとする。
 ソルは棘を強く押し、前のめりに倒させる。ばしゃり、とレイヴンは雨漏りできた水溜まりに顔を埋めた。
 左手をレイヴンの肩に当て、ソルは後頭部の棘を頭頂部の方へと押し倒していく。
「ゴボッ……!」
 レイヴンが抗議の声を上げた。が、その声は言葉にならず、泡と化す。
 怪力によって棘は頭頂部へと徐々に移動する。移動した痕は大きな亀裂となり、中から脳と頭蓋骨の断面と肉が見えた。
 完全に棘がレイヴンの頭を分断すると、棘は肉から離れてソルの手に握られる。
 金属でできたそれに炎の法力を注ぎ、レイヴンの背に落とした。棘が背を貫いて着地した瞬間、棘が真っ赤に変色し、融解して背中を灼く。
 間髪入れず、ソルは再び法術を組んだ。
 顔を埋めている水溜まりの温度が一気に上昇し、ついには沸騰温度を超えて千度以上にまで達した。
 レイヴンの身が大きく痙攣し、本能的に離れようとして左腕で立とうとする。
 しかし、ソルが彼の首を踏み、その自由さえ許さない。
 なおも立とうと力を入れる。すると、首から嫌な音がした。
 骨が折れ、食道に折れた骨が突き刺さる。
 水溜まりが完全に古い血の黒色で染まった。それを見たソルは首から足を離し、今度は肩を踏みつけ、いつでも反撃ができるように法術を準備した。
 ソルは無表情を保ち、しかしその口から発せられる言葉に憎悪をこめ、レイヴンに問いを放つ。
「――『あの男』はどこだ?」
 レイヴンは首を回し、ソルに顔を向け、熔けかかっている目蓋を必死に開けて侮蔑の視線を送った。
「それを……貴様に言うと思っているのか?」
「ああ、思ってねえ。これまでの訊き方と同じならな」
 言って、ソルはレイヴンを抑える足とは違う方の足で、あばらが既に折れている脇腹を再び蹴りつける。
 あばらの杭がより深く穿たれ、反射的に「気持ち良ッ……!」と声を上げた後、レイヴンは息を荒げつつも皮肉を返した。
「……これまでと同じじゃあない?
 なら何だ、土下座でもして『お願いします』と乞うのか? 貴様のその姿を想像するだに怖気が誘われるが、一度見てみたいとも――」
 思うな、と言うよりも前にソルがレイヴンの顔を再び蹴りつけ、無理矢理にその言葉を中断させる。
「これが最後の機会だ」
 あくまでも、無表情に、憎悪をこめて、ソルが、言う。
「『あの男』は――」
「言うものか!」
 折れた歯を再生しながら、レイヴンが叫んだ。
「私は決して『あの御方』が不利になられる事など言わん!
 言う事も行う事も思う事も、全て、断じて、私はやらん!」
「……随分な忠誠心だ。権威主義者か?」
「否。私はただ、全ての存在が『あの御方』に従うべきだと思っているのだ。――貴様も含めてな」
「何だと?」
「貴様は『あの御方』に、尊大なる役目を与えられたというのに――私がどれほど懇願しても叶わなかったその身分に就いたというのに――貴様は――貴様はッ!」
 嫌悪と嫉妬の混じる腐敗した右目に射抜かれても、ソルは相変わらず無表情で、レイヴンを見下げていた。
「鴉はゴミ溜めにいる事を望む、か。オレは御免だがな。さて――」
 ソルは自分のジャケットを漁り、何かを探して取り出した。
 指でつままれたそれは、透明な液体が入った、小瓶。
 その小瓶をレイヴンにアピールしてから、ソルが解説する。
「自白剤だ。
 ファウスト――いや、とある医者から貰った物だ。
 少し前に『実験』してみたが、効果があるのは確認している。即効性があるのもな」
 そう言うと、ソルはレイヴンの脇腹を蹴り、うつ伏せの状態からあお向けに変え、がら空きの鳩尾に全体重をかけた蹴りをかけた。
「――――――――――――――――!」
 描写もできない叫び声が、大きく開け放たれた口から噴出する。
 その口に、ソルは小瓶ごと自白剤を投げ入れた。
 口腔にその小瓶が収められた瞬間、ソルは拳をつくり、顎を殴りつける。
 嫌が応にも閉じられた口の中で、歯が小瓶のガラスを噛み砕き、苦味を伴う自白剤が溢れ、勢いあまってそのガラスの破片と自白剤を嚥下してしまった。
 尖ったガラスの破片が喉を引っ掻き、突き立ち、鮮血が自白剤と共に胃へと流れ落ちる。
 舌鋒はその巻き添えを食らい、鈍い前歯で半分絶たれた。その半分の切り口は切断された筋の様を呈し、張り巡らされた血管から血をだらだらと流している。残りの半分は強く圧迫されたため、内出血で膨れていた。
 ソルが再び鳩尾を蹴り、再びレイヴンの口を開かせた。
 ガラスの破片が歯肉や上顎や舌根に埋まり、光を乱反射させている口内を見て、ソルはレイヴンが自白剤を飲んだ事を確認した。
 ソルは目をすぼめ、三度目の問いを投げかける。


「……『あの男』は、どこだ?」






 外で雷が鳴き叫ぶのを、衰弱した耳がかすかに拾い上げる。
 右肩は回復するそぶりも見せず、ただただ血を流し続けていた。
 体は、全く動かない。虚ろな感覚で満たされ、立ち上がる事すら困難だ。
 唯一の対抗手段になりそうな要素は、痛めつけられた精神に残された、わずかな法力。
 しかし、これまで強力無比な法術を見せつけてきたソルを打倒する事は、不死者である自分が死ぬ事と同じくらい不可能であろう。
 絶望的な状況の中、レイヴンはふと、その文章の中から逃げのびる活路をすくい上げた。
「……『あの男』は、どこだ?」
 ソルの、声。
 レイヴンは口を固く閉ざそうとする。だが、意志に反して口が開かれ、血をだらりと垂らした。
「……『あの御方』は……」
 微弱な声が紡がれ、ソルはレイヴンに催促する。
「もう少し大きな声で言え。テメェと顔を突き合わす時間はとりたくねぇ」
「……『あの御方』、は……」
 ソルはどうしてもその先が聞き取れず、レイヴンの口に耳を寄せた。
「…………」
「もう一回言ってみろ」
「……ククッ」
 その時、レイヴンは確かに笑った。
 ソルが怪訝な表情を浮かべると同時に、レイヴンが吐血する。
 喉や肺を裂かれ、血溜まりと化した口に通ずる器官から、血が一気に押し寄せ、小さな奔流となってソルの身に浴びせられた。
「っ……!」
 嫌悪感から、レイヴンから身を退くソル。一方レイヴンは、嘲笑に顔を染めている。
「先程も言ったはずだ。
 私は、言わん。『あの御方』が不利になられるような事は、全て、断じて、言わん」
「……どういう事だ?」
「どういう事、とは?」
 首を傾げる。だが、その質問の行方を推察すると、レイヴンはより嘲るように笑った。
「ああ、自白剤の事か?
 残念だが、どうやら少ししか効かなかったようだな。何しろ、私の身は残念な事に『不死』だからな。体に有害な毒物は排除されるようになっている。――この場合は自白剤だな」
 互いに黙する。
 ソルはその中で、胸の内に殺意を煮立たせ、ようやく開いた口から脅迫が漏れた。
「テメェ……殺すぞ」
 これまでの比ではない殺気を漂わせ、ソルが法力を練り上げた。
 レイヴンは大口を開け、笑い始める。
「フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! ハハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!」
「黙れ!」
 声を荒げ、ソルが殴る。
 それでも、レイヴンの笑いは絶えない。
「考えもしなかったか? 思いもしなかったのか? それとも、自分の策を自画自賛し、その可能性を冷静に見つめる事すらできなかったのか?
 ――まあ、百数十年『しか』生きていない貴様には、考えが及ばなかったのも当たり前だろう」
「黙れッ!
 もういい――ここで灰になれ!」
 ソルの法力が膨らんでいくのを感じたレイヴンは、笑うのを止めてソルを挑発した。
「避けていたな」
「何っ?」
「これまで、貴様は私を圧倒するために、様々な属性の法術を見せてきた。
 だが、まだあるじゃぁないか。――雷が」
 ソルは黙り、レイヴンの言葉を聞いている。
「私は本来、雷の属性を得意としている。
 これまでは、貴様を殺さないよう『あの御方』に言われていたからこそ、私は風を操っていた。
 つまり、貴様は私の不得意な属性を捩じ伏せ、得意げになっていただけだ。……実に滑稽だったな」
「嘘をつけ!」
「嘘かどうかは――実力で確かめれば分かる事だ」
 言うが早いか、レイヴンの全身からバチバチという異音と光が立ち始める。
「上等だ……!」
 ソルもまた業火を放つための法力を、雷の法力に変換する。




 嵐の雷鳴と共に、城内で凄まじい電流が迸った。








 ソルが、ゆっくりと後ろに倒れる。
 受け身も取れず、大きな音を立てて床と激突した。
 レイヴンはそれを見て、安堵のため息を深く吐く。
 それから辺りの空気を肺に取りこむと、妙な特異臭が鼻についた。
 酸素が、電流でオゾンに合成されたせいだ。
「……青いな」
 そう、レイヴンがつぶやいた。
「感情だけで動けば、足がすくわれるのは世の常だ。……怨敵を討つ時こそ、冷静を保つべきだというのにな」
 苦笑し、雷撃で気絶しているソルをじっと見つめる。
 そもそもレイヴンが得意な属性は雷ではなく風だ。他の属性では、風ほどの力は発揮できない。
 そして、先程のように全身から電流を発生させる事が、レイヴンの雷の法術の最大出力だ。
 それを見たソルは、それを「これから強大な雷の法術を放つ予兆」と誤解し、レイヴンの法術を圧倒的に上回る雷を生み出し、そしてレイヴンに解き放った。
 だが、ソルはレイヴンの血を浴びていた。
 血にはヘモグロビン――つまり鉄が含まれている。勿論、鉄は電気を通し、レイヴンに放った雷は、血を伝ってソルへと逆流した。
 つまり、ソルは自らの雷に打たれて倒れたのだ。
 レイヴンもまた雷に打たれたが、不死者である以上死にはしない。
 ソルは死ぬ可能性があったが、レイヴンという抵抗が作用して電力が弱まるため、その可能性は低い。
「計画通り、だな……」
 レイヴンのその言葉にソルが反応を示さないのを見て、一応死んでいるかどうかを確かめる。
 首に触り、動脈が動いている事を確認し、レイヴンは一つうなずく。
「さらばだ、『背徳の炎』。充分に――充分過ぎる程、楽しませて貰った。
 今度は、私に死を得させてくれる事を期待しているぞ。……私でさえも未だ知りえぬその時までな」
 彼は穏やかに言葉を残すと、その姿は朧に揺れ、鴉の羽を散らして去って行った。




「――なるほど。それでこうなったってワケか」
 件の城から遥か遠き、名も知れぬ地の更に地下。
「あの男」がいくつか用意している拠点の一つであり、そこで傷を癒していたレイヴンは、偶然居合わせたイノに包帯を巻くよう指示した。
 不承不承でそれを請けた彼女だが、その心情を表したように、巻かれる包帯はとても雑である。
 ところどころがシワになっていたり緩かったりして、あまり心地がよろしくない。
 ごわごわした感触に口端を曲げ、レイヴンはその不快さを眉根のシワで表した。
「……私が危機に瀕していたというのに、貴様はどうしてそう労るという事を頑に拒絶する?」
「じゃあ逆に訊くが、アタシがテメェを労るなんてコトすると思うか?」
「思わんな」
「それが答えだ」
 その言葉に口をつぐみ、レイヴンは代わりにじっとイノを睨みつける。
 しばらく沈黙が場を支配していたが、
「――これでいいだろ」
 イノの合図で、沈黙は融解した。
「フン、まあいい。貴様にしては上々だと思うようにしよう」
「……どうしても労って欲しいんだったら、まずテメェの態度から改めろよ」
「年長者を蔑ろにするその姿勢こそ改めるべきだと思うがな」
「レディファーストっていう言葉を知らねえのかよ?」
「レディ? 今どこに淑女がいるのか、まずそこから教えて貰おうか」
「ケッ、手足の数は減ったってのに、相変わらず口だけは減らねぇのな」
 イノがそう言って去ろうとする。その背中に、レイヴンがわざとらしい大声で「独り言」をのたまう。
「ああ、喉が渇いたな。シュヴァルツヴォルケンでは冷蔵庫は開けられないだろうが、隻腕のままではビールを取り出すのも一苦労だな」
「……チッ!」
 舌打ちし、イノは法力式の冷蔵庫を開け、中から缶に詰められたビールを取り出した。
 その缶を開けてからレイヴンの左腕に渡し、レイヴンは一呑みしてからイノを見やる。
「頼んでもいなかったが、一応感謝しよう」
「うるせえ! さっさと自分の部屋に戻りやがれ!」
 イノが怒鳴り、レイヴンは静かに彼女の名前を呼んだ。
「イノ」
「何だよ!」
「エダマメも頼む」
「……このヤロウ!」
 腕を振り上げるイノから目を離し、虚空に視線を合わせるレイヴン。
 口を開き、怒声に掻き消されるほど小さな声で独りつぶやく。
「まあ――しばらくは生きていてもいいか」



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