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無限の打鍵



 無限の時間を生きる無限の猿が無限の鍵盤を無限に叩いている。
 その大部分が毒にも薬にも意味にも文章にもならない無為な文字列を打ち出している。
 無限の時間を生きる無限の猿が無限の鍵盤を無限に叩いている。
 しかし時として、毒にも薬にも意味にも文章にもなる可能性の文字列が打ち出される。
 無限に無限を重ねていく。
 須臾を刹那を永遠に永劫に塗り替えていく。
 0に限りなく近い可能性を1に限りなく近い可能性へと歩み寄らせる。
 その行為は、その所業は、今もなお続いている。




 世界が、赤い。
 目が痛くなるほどに赤いその世界に、一つの人影がぽつりと立っていた。
 長身痩躯の人影だ。長寿を象徴する白髪は象徴どころか事実であり、青ざめた肌は死人のようと言うまでもなく実質的な死人の肌をしている。
 仮面に表情を隠し、外套で身体を覆い、彼はただじっと頭上に存在する立方体を見上げていた。
「キューブ」と名づけられた人工物だ。
 光り輝く紋様がその透明な六面に浮かぶ神々しい姿は、その全てはただの見てくれだけで造られたのではなく性能を何よりも重視して造られている。
 卓越した武術が芸術として評価されるように、その機能美もまた芸術として得点が高いのはその筋でない彼にもよく分かった。
 ただ、彼が今思考することはキューブの美しさについてではなく、その内に収められたある情報について。
 ――キューブの内部には地球に関する情報が詰められている。
 ――ならば、自分の情報は? その情報を破壊すれば、あるいは――。
 そこまで考えて、彼が振り向く。
 いつの間にか、そこに人が立っていた。
 年齢は分からないが、その外見は若者として分類されるだろう。ただ、彼の内面はひどく年経たものだと雰囲気で見てとれた。溌剌としていない、落ち着いた雰囲気。それは年の功故の落ち着きか、それとも大義の為に命を捧げる者特有の落ち着きか。
「レイヴン、何を考えていたんだ?」
 思考を見透かしていながら、あえて疑問を口にするような。全てを知りつつも、その者の技量を量るような。そんな声色で若者が彼に問う。
 レイヴンは仮面の下で瞳を閉じ、どうするべきか逡巡した。
 素直に本音を打ち明けるべきか、自衛の建前を作り上げるべきか。
 一瞬の躊躇を犠牲に決断を執り、外套を翻して主と対峙する。
 髪の下にあるであろう瞳を見据え、レイヴンは乾いた唇から言葉を紡いだ。
「……少々、邪な考えを抱いておりました。
 あの中にある私の情報を壊せば、私の永劫は終焉を迎えるのか、と。そう考えていた次第です」
「そうか。それは可能性としてはあるかもしれないな」
 若者が相槌を打ち、会話の主体がレイヴンから彼に移る。
「バックヤードの情報には、時折誤り――バグが生じる事がある。それによって不老不死の状態になる前例は僕の知る限り一件だけ存在している」
「……前例、ですか?」
 未聞の事実に思わずレイヴンが聞き返し、若者はそれに首肯した。
「不老不死になったある女性だ。
 僕なりに調べた結果、情報のバグを発見した。これが原因だと僕は思っている」
「しかし……このバックヤードにバグ、ですか? そのような事は無いと考えていましたが……」
「どんな物にだって完全はない。それがただ、百分の一の不完全か、百兆分の一の不完全かの違いであるというだけだ。
 その不完全を積み重ねて、バグが出る。それはこの深遠なるバックヤードでも、数百年に一度という程度のバグだ」
 そして、若者はレイヴンに向く。
「お前は、『無限の猿』を知っているか?」




 無限が折り重なり、幾星霜。
 無限が積み重なり、幾星霜。
 永遠と永劫と永代と永久の幕開けで、永遠と永劫と永代と永久の最果てで、
 無限の猿は無機的に、無感動に、ある題名を打ち出した。
「Hamlet」。
 それに正しく続く文を次々と打つ時も、
 無限の猿は無機的に、無感動に、ただ己の行為を続けるのみ。
 そこに何者かの介入があったとしても、
 無限の猿は無機的に、無感動に、ただ己の行為を続けるのみ。




「ねえ、フレッド」
「何だ?」
「たまに考えるの。運命っていうのを」
「確率の専門家が言う台詞か?」
「確率の専門家だからこそ言う台詞だよ。
 この世界には約70億人の人たちがいて、その中から私たちが出会う確率はどれくらいだと思う?」
「……単純に考えて、70億と70億で……10億は10の9乗で……49掛ける10の18乗分の1だ」
「そう考えると凄いでしょ? 4900京分の1って」
「だが、それは世界の人口の話だろ。アメリカに限ればもっと少なくなる」
「その上、この世界に人間が生まれてから現在までの時間を考慮すれば、アメリカに限っても更に更に凄くなるよ」
「じゃあ、この世にいる全てのカップル共はその『凄い偶然』の上に成り立っているのか?」
「もう。もっと大事な要素を考慮してないなぁ」
「生憎、俺はお前程確率に詳しくないからな」
「ううん、確率とかそういうのじゃなくって、もっと単純な事」
「……勿体ぶらずに言ってみろ」
「んー。こんなにも愛し合える二人が都合良く出会うなんて、運命だなーって事」
「…………」
「こら。目を逸らさない。
 私だって恥ずかしいんだよ。でもやっぱり、そういうのは伝えなきゃいけないし」
「じゃあ、俺も『愛し合う二人はいつも一緒だ』なんて事でも言えばいいのか?」
「…………」
「目を逸らすな」
「――いや、まあ、それは別としてさ。
 そんな確率から、こんな風に相性の良い、良過ぎる二人が出会うなんて、凄い偶然というか――運命って感じがしない?」
「ただ単に俺達の行動の結果だろ」
「それなら良いんだけどね」
「……何でいきなり暗くなる?」
「いや、ちょっと……あいつの言葉がね」
「あいつ? 言葉?」
「……『神』と『啓示』の話」
「あれは妄言だって言っただろ」
「でもさ。生き物が生まれて人間までの進化は、本当に確率としてとても珍しい事なんだよ。
 私だってずっと不思議に思ってた事だけど、今まではただ単にとても珍しい偶然って思いこんでた。けど、けど、もしそうだとしたら、この世界の全部が『啓示』っていうのの思い通りになってて、それで――」
「止せ」
「……フレッド?」
「真に受けるなとも言ったはずだろ。
 それはあくまで仮説だ。真実じゃない。
 確実な証拠だって無い。だから、そんなに思い詰めるな」
「…………」
「仕事のし過ぎだ。少し、休め」
「……うん。そうだね。
 ちょっと疲れてるみたいだけど、きっとぐっすり眠ってきっぱり起きれば、ちゃんとまっすぐに考えられると思うよ」
「……ああ」
「――ねえ、フレッド」
「また何だ?」
「もし……私達が『運命』に引き裂かれても、最後にまた逢えるよね?」
「…………」
「…………」
「……逢えるとか、逢えないとかじゃねぇ」
「……?」
「逢う。必ずだ」
「…………」
「…………」
「……ありがと、フレデリック。
 じゃあ――またね」




「無限の猿」という概念が衆目に晒された時から、人々は「無限の猿」に好奇と期待を寄せている。
 ある者は「無限の猿」に魅入られ文学作品に引用し、ある者は「無限の猿」は無能であると糾弾し、またある者は実際の猿に鍵盤を与えてその経過と結果を表した。
 そして、ある者は擬似的な「無限の猿」をコンピュータの内に創り上げた。
 英数字と記号を無作為に組み合わせるプログラム。
 それによって疑似「無限の猿」は人間の監視下で、初めてその作業をひけらかしたのだ。




 数百の可能性が確定していく。
 数京の可能性が淘汰していく。
 今もなお身体や精神に関する是非が問われる中で、未完成の体と心で少女は己の名前を獲得した。
 それを発声するにはあまりにも早過ぎる。
 それを理解するにはあまりにも早過ぎる。
 それでも、少女は己の名前を己の内に刻みこむ。
 いつか来る、赤いバックヤードの胎から解き放たれるその時の為に。




 一匹の猿が紡いでいく、膨大な言葉のがらくた。
 そのがらくたの中から、人は光り輝くある一片を拾い上げた。
 それは猿にとって意味のない一片だった。
 それは人にとって意味のある一片だった。
 無限に無限を重ね、可能性の果てに紡いだ、ある一片。

「VALENTINE」と、猿は打鍵した。



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