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Cold Word



 三月二七日。
 元ドラッグド・タウン付近の地下に設けられた、拠点の一つ。
 そこにレイヴンはいた。
 いつもの黒ずくめの服装ではなく、新品の白衣に白いゴム手袋に白いゴム長靴と、白ずくめの服。
 そして、もはや彼の体の一部ともいえる頭の棘すらなかった。
 そのいつもと違う姿の彼は、やはり様子もいつもと違う。
 どことなくワクワクした様子で、満面とはいえないが笑みを浮かべていた。
 スキップすらしそうな足取りで、レイヴンは通路をしばらく歩く。
 その歩みは扉の前で一時停止し、彼は勢いよく扉を開けた。
 扉の先は、保管庫だった。
 棚に並べられた試験管やケースには、得体の知れない液体や奇妙な肉塊が収められている。中には宇宙的(コズミック)な色をした冒涜的な液体やら、なにかに奉仕していたかもしれない黒い肉塊やらもある。
 そんなものには目もくれず――というより目にしないようにして、レイヴンは目的の棚へと歩を進めた。
 そして目的の棚に着き、そこに置かれた試験管を手にとる。
 試験管には、見た目にはなんの変哲もない透明な液体を孕んでいた。
 だが、彼の目的は紛れもなくその液体。
 その中身は、彼が独自に開発した新種のウィルスであった。
「あの男」の持つ書物を色々と読み進め、あらゆるウィルスや細菌を調べ上げ、試行錯誤を繰り返し、望みのものを創り上げても培養に幾度となく失敗し、それでも諦めず努力し手にしたのがこのウィルスである。
 ではこのウィルスでなにをするのか。
 それはイリュリア連王国に病の恐怖を撒くこと――ではなく、ある危険人物を殺すため――でもなく。
 ただ単に、苦しみたいだけである。
 苦しみたいだけで何年もかけてこんなことをするあたり、彼は真性のマゾヒスト、そしてマゾヒストの鑑と言えよう。
 ……暇人とも言えるが。
 ともかく、何年もかけてまで創ったウィルスはそんじょそこいらのウィルスとは違う。
 レイヴンの不死能力でも殺し切れない繁殖力と毒性と、彼以外の人間に感染しないという特性を持たせた特別なウィルスだ。
 そして、それとは別に抗ウィルス剤も創ってある。
 緊急の任務が来たり、万が一にでも他の人間に移った場合のためのものだ。
 この抗ウィルス剤は飲んで一時間ほどで効く即効性に重点を置いたもので、効果は試験体で実証済みだ。
「フフフ……フハハハハハッ!」
 これまでの努力と、これから得られる苦痛を思い、思わず哄笑する。
 そして口にウィルス入りの液体を含み、嚥下した。




 三月二八日。
「あーっ、ったく……あのヤロウ、よりにもよって今回だけすっぽかしやがって……。
 せっかく成金のヤツと約束したってのに……アタシに鉢が回ってきやがったじゃねぇか」
 空間転移で拠点に移動し、開口一番イノがぼやく。
 昨日、レイヴンに「あの男」から緊急の任務が入ったのだが、彼と連絡がつかなかったために彼女が代わりとしてその任務をこなしたのだ。
「今度会ったらトコトンなじってやる……マジメくさってるクセに、こういうときだけ意地悪くすっぽかして――ん?」
 イノの耳に、何者かが咳きこむ声が届く。
 その何者かの正体を探るため、しばらく沈黙し――、
 再び咳の音。その声を脳内で知る限りの人物と当てはめていき、ついに答えに辿り着いた。
「レイヴンがいるのかよ……」
 舌打ちをし、今すぐ文句をつけるため声の元へと歩み寄る。
 声の元は、彼の自室だと知れた。
 扉を開け、すぐに彼女が怒鳴り散らす。
「おいレイヴン! なんで昨日「あのお方」の呼びかけに応じなかったんだよ!」
 彼の部屋に、イノの大声が響いた。
 それでも、返答はない。
 怪訝に思った彼女は部屋からレイヴンを見つけだそうと視線を巡らした。
 そしてようやく、部屋の隅に置かれたベッドの毛布が盛り上がっていることを発見し、ズカズカと近づく。
 イノは毛布に手をかけ、怒りのままにそれを取り上げた。
「おいテメェ! 無視してんじゃねぇよ!
 ――?」
 そこで、彼女が眉をひそめる。
 毛布によって隠されていたレイヴンの姿は、珍しく白衣をまとっていた。
 だが、それはどうでもいい。
「げほっ……がはっ……イノ、か……」
 かなり弱った様子で、咳きこみながらレイヴンが返事する。
 普段は青い頬に紅を差し、目の焦点も若干合っていない。
 そんな彼の様子を見て、イノは思わず問いただした。
「おい……カゼか?」
「……ああ、そんなところだ……」
「テメェ、不死者なんだろ?
 なら病気にもかからねぇハズだろ。どうしたんだよ」
「……確かに私は不死者だ。だが……その再生力を上回るウィルスを……ゲホッ――開発したんだ……。
 一応、私以外にはかからないよう性質を変えた……安心するといい……」
「で、そのウィルスが昨日すっぽかした原因かよ……。
 テメェの自分勝手のせいで、アタシがムダに働くコトになったじゃねぇか! どう落とし前つけてくれるんだよ!」
「……抗ウィルス剤も開発したが……どうにも、上手く作用しなくてな……すまなかった」
 珍しく素直に謝るレイヴンに、妙な気味の悪さを覚える。
 だが、おののくことはなく、さらにイノが問いつめた。
「じゃあ、このままくたばるのか? そうなりゃこっちとしちゃ万々歳だがな」
「そうなれば、私としても喜ばしいが……多分治るはずだ……そのうち、体内で抗体でも生成されるだろう……」
「そりゃおめでてぇな。んじゃ放っておいても勝手に治るんだな」
「ああ……そういうことだ――かはっ、けほっ、ガハッ……!」
 激しく咳きこむレイヴンに冷ややかな視線を投げかけ、イノは彼を見捨てるように部屋を出る。
「ったく……珍しくバカやりやがって……」
 ため息を吐き、イノもまた自室にこもった。
 帽子とブーツを脱ぎ捨て、ベッドに倒れこむ。
 そのまま寝ようかと思ったが、レイヴンの咳きこむ音がそれを邪魔した。
 それに、彼の病気について考えると睡魔が退いていく。
 ウィルスはレイヴンにしかかからないと言ったが、もし自分にもかかったら? このまま長引いたとしたら、彼が負うはずの任務が自分に回るのではないか?
 そんな風に考えて、イノは髪をぐしゃぐしゃに掻き、
「あーっ、もう!」
 ベッドから跳ね起き、レイヴンの部屋に乗りこんですぐ宣言した。
「看病してやる! さっさとそのクソウィルスを殺してやれ!」




 拠点には、必要最低限のものしか置いていない。
 資料や実験道具、机やイスはあるものの、食材や人体用の温度計などといった生活感のあるものはほとんどなかった。
「……ま、こんな狭けりゃ置き場所に困るしな」
 なにか役に立つものはないかと、拠点をあらかた探し回ったイノがため息を吐く。
「こうなりゃ、シャバに出て買いこむしかねぇか……」
 金なら、男を惑わし貢がせた金がいくらかある。
 財布の中身を確認し、充分あると判断したイノはさっそく拠点から地上へと空間転移をとりおこなった。
 座標は、人気のなさそうな森深く。
 その場所を強くイメージし、法術を編み、イノの姿が拠点から掻き消えた。
 そして、イメージ通りの場所に、彼女の姿が凝固する。
 一応、辺りを見回した。どうやら空間転移の現場を見た人間はいないようだ。
 とりあえず最初の関門をクリアしたイノは、森近くの小さな街へと足を運ぶ。
 よくここを空間転移の目的地としているため、近くの地理には詳しい。
 目立った目印のない森の中を、迷うことなく進んでいく。
 さしたる障害もなく街に入り、そこでイノははたと気づいた。
「……カゼとか、病気にかかったときって、どういった処置をすればいいんだ……?」
 彼女の脳内には、家庭の医学に関する情報は一切含有されていない。
 幼少期から現在に至るまで、時間移動の特異体質故か病気などかかったことがなかった。
 その上、病人を看病する機会など全くないイノにとって、風邪に関する基本的な情報すら知らない。
 医者に訊けば答えてくれるだろうが、唯一知っているあの生物学的に変態的な医者に頼るのはなんというか人間の尊厳の根本的な部分に関わる深刻な問題を引き起こす気がする。
 しばらく立ち往生し、ぐるぐると悩んでいると――、
「……君は……いつかの赤い人……?」
「ん……?」
 呼びかけられ、振り向いた先には女が立っていた。
 外ハネの赤毛に、血色の悪い肌。背後には鍵にしか見えない斧が、困惑した表情で女を見下ろしている。
 見覚えはある。が、面識が浅いせいか名前が出てこない。
 硬直するイノに、女がボソボソと独り言をつぶやいた。
「……更年期の……ボケの始まりか……」
「誰が更年期か!
 そうか……テメェ、前にこのアタシのコトを三十路っていった鍵女じゃねぇか!」
「名前が出ないのはもう手遅れ……後のまつり縫いね……」
「さっきのでもう分かったよ! テメェはアバっていうんだろ!」
「正解……」
 これまたボソボソと喋るアバ。
 イノはフン、と鼻を鳴らす。
「それで、なんでアタシに声をかけたんだ?」
「君は……あちこち行ってるらしいから……。
 それで……訊きたいことがある。
 私の夫……体を、造れる人……探してる」
 知るか、と一蹴する直前。
 イノの頭上に架空の電球が光った。
「あぁ、それなら心当たりがあるな」
「……本当?」
 不審げな様子を見せるアバに、イノが提案する。
「教えてやってもいいけどよ……ギヴアンドテイクって知ってるか?」
「私に知らないことはないわ……」
「それならなおさら好都合だ。
 じゃあ、コッチが教えてやるかわりに、ソッチが教えてくれ」
「私は……何を君に教えるの……?」
「あー……カゼひいたヤツの看病の仕方だ」
「…………」
「知ってるよな?」
「……………………」
 アバはしばらく考えるも、時間が過ぎるごとにどんどんと顔が険しくなっていく。
 その様子を見たイノは、思わず声をかけた。
「おい……まさか、知らないのか?」
 非難を帯びた声に、アバが頭を振って否定する。
「私に知らないことはないわ……そ、そんなこと、簡単よ……」
「そうか。なら教えてくれよ」
「それは――」




 拠点に戻ったイノの耳に、レイヴンの咳の音が聞こえる。
 五回ほど咳が続き、さらに数秒後に再び咳。
 その様子を見て……いや聞いて、イノが不安に駆られる。
「あいつ……ますます具合悪くなってねぇか?」
 確か彼が言うには、時間が経てば抗体ができるというのだが……。
 大きな買い物袋を机に置き、袋の中から小箱を手に取りレイヴンの下へ急ぐ。
 扉を開け、目に飛びこんだのは――毛布に若干の血をつけた、彼の姿。
「おいっ! レイヴン!?」
「大丈夫、だ……心配するな……げほっ、げほっ! ただ……咳をし過ぎてッ……ガッ! がはっ! ……喉を、傷つけて……血がほんの少し出ただけだ……ぅっ……」
「もういいっ、これ以上喋んな!」
 さっき見たよりずいぶん憔悴しているようだ。
 早急に何らかの対処をすべきだと判断し、イノは小箱からなにかを取り出す。
「ホラ、風邪薬だ。
 たぶん、なにもしないよりはマシだろ?」
「まあ、そうかもしれんな……」
 イノから手渡しされた風邪薬を掌に乗せ、レイヴンが彼女に向く。
「すまないが、水をくれ」
「わかった。水だな。ちょっと待ってろ」
 そう言うと、イノは部屋から出てコップと水を調達し、部屋に戻ってレイヴンに渡した。
 彼は震える手でそれを受け取り、コップのフチに口をつける。
「あ――」
 だが、力がうまく入らないのか、レイヴンの手からコップが滑り落ちた。
 体や毛布に水がかかり、イノが「ったく」と悪態をつく。
「後で替えてやるから、とにかく今は薬を飲め」
「だが……今はどうにも、体が……」
「うまく動かなくて水も飲めない、ってか?
 じゃあ、先に薬を口に入れてろ」
「……?」
 言われた通りに彼が薬を口に含むと、イノが身を乗り出して彼の口に手を突っこむ。
「モガッ……!」
「噛むなよ」
 それだけを忠告して、イノが法術を紡いだ。
 水の法術。
 それはごく少量だけ彼の口腔に発現し、無事発動したことを確認するとイノの手が引っこむ。
 レイヴンはむせないように水を飲みこみ、薬を胃の中に収めた。
「……気遣いは、ありがたいが……コップにストローをつける程度でいいぞ」
「ねぇよ。拠点にストローなんざ」
「……そう、か……そうだな……」
 納得するレイヴンから離れ、イノが口を開く。
「それじゃ、テメェの毛布と服の替えを用意するな」
 言いつつ、イノがクローゼットを開いた。
 そこには服と毛布が当然ある。が、少し気になる点がある。
「おい……この服なんだ? なんか中に棘がしこまれてるんだが」
「それは……趣味だ」
「じゃあ、この金属でできた服は……」
「熱した後、着るものだ……」
「……じゃあこれはなんだ?
 ……この、あちこちにリボンついてて、すみずみまでフリルの、」
「それは追求しないでくれ……私としても、その扱いには困っているんだ……」
 レイヴンが頭を毛布に埋め、その服にまつわる過去のフラッシュバックが脳裏に閃く。
 イノはそっとしておこう、と選択し、とりあえず適当な服と替えの毛布をクローゼットから取り出した。
 レイヴンから毛布をひっぺがし、替えをあてがう。
 そして彼の濡れた服に手をかけたとき、レイヴンはわずかに抵抗の色を見せた。
「これくらい……自分で、できる……げほっ」
「病人は病人らしく、他人に任せてろ……」
「待っ――」
 制止しようとする腕を振り解き、イノが彼の服をひっぺがす。
 服の下から露わになった体を見て、彼女は首をかしげた。
「……お前、傷ができても跡形なく治るんじゃなかったか?」
「ああ、これか……」
 胸と腹、背にある傷をなぞり、レイヴンが少しだけ喋る。
「昔……私が、不死になった時……かはっ……できた傷だ……」
「そうかよ。にしても――」
 イノが彼の身体をじろじろと見つめ、ぽつりとこぼした。
「――意外と、いい体してんじゃねぇか」
 ざっ。
 その独り言に過剰に反応したレイヴンが、病人とは思えない速度でベッドの上を後ずさる。
 彼の様子に、イノが顔をしかめた。
「別に、ンな反応しなくてもいいじゃねぇか」
「……先程の言動は、明らかに私に毒牙をかける気の言動だろうが……」
「違ぇよ。ただ単に素直な感想をいっただけだ」
「……素直な? ……お前が……? ……お前が、私を……いいと……?」
 段々と赤面していくレイヴンに、イノは慌てて言い訳する。
「ち、違ぇ! それも、違ぇぞ!」
「……どう、違うというんだ……?」
「こう……なんつーか……と、とにかく違うモンは違うんだよ!」
 なんとか勢いで誤魔化して、イノが扉に近づいた。
「服は置いといたからな! 自分で勝手に着てろよ!
 アタシはメシつくっとくから、その間に少しでもウィルス殺しとけよ!」
 扉を勢いよく開け閉めし、イノが部屋から一時退散する。
 買い物袋を取りに行き、それから拠点にある台所に足を踏み入れた。
「台所」と名がつくものの、その部屋には法力式のコンロと洗い場くらいしかない。
 それでも、これから作ろうとしている料理であれば充分だ。
 イノは買い物袋から食材や調味料を取り出し、机に並べていく。




 数十分ほど経った頃。
 薬が効いたのか、咳の回数は前よりも少なくなっていた。
 ただ、薬は咳に対しての効果しかないのかもしれない。
 脳を苛む熱や、気分の悪さは相変わらずだ。
「……くっ……」
 服を着替えることにすら数分もかけ、自分が不調であることを思い知らされた。
 早く体調を戻さなければ、「あのお方」の下で働くことすらできない。
 そう考えると、この身に蔓延る苦痛を快楽として受け取れなかった。
「おーい、できたぞー」
 言いながら、イノが扉を開けて入ってくる。
 手にしている盆の上には料理が載っていた。
 その料理を見たとき、レイヴンが眉をひそめる。
「……それは?」
「ん? 訊くまでもねぇじゃねぇか」
 土鍋の中がよく見えるようほんの少し傾けて、イノが答えた。
「お粥だよ」
「……粥というのは、ここまで混沌を体現した料理だっただろうか……」
 確かに、土鍋の中に見える白い粒は米だろうが、イレギュラーな要素がその物体を「お粥」と呼称させることを留まらせる。
 ゴボウやニンジン、卵やヤマイモはまだいい。――いや、大体が皮つきな時点でよくないかもしれないが、それよりも。
 ウナギ。スッポン。更にはハチの子。
 米に混ざっている様々な食材が、そのままの姿で投入されていた。
 しかも、このラインナップ――、
「……これは風邪の罹患者向けというより、ある症状にかかっている男向けの料理じゃぁないのか……?」
「そうか? こういうのが、体力がつくんだろ?」
「体力というか別の力がつくな。というか、結局貴様は私を襲うつもりなのだとこの件で確信した」
「まぁとにかく食っときゃいいだろ。なにも食わないよりはよ」
「……いや……私は遠慮しておこう……」
「人肉とかは入ってないから、遠慮せずに食え。というか食わせる」
「ちょっと待て……病人に残飯処理をさせむグァッ!?」
 抗議の声が、米とハチの子を乗せたスプーンによって遮られた。
 苦い顔をし、吐こうとするが――それより前に、味覚が捕らえた感覚を素直に表現する。
「……旨い?」
「味見はしといたからな。
 んじゃ、残さず食っとけよ。アタシは他に色々と用意するコトがあるからな」
「あ、ああ……」
 土鍋とスプーンを押しつけられ、レイヴンはのろのろとスプーンを口に運ぶ。
 見た目や、食べにくいところや生の部分があったりするところがネックだが、食べられないことはない。
 ……こういったものは、いったい何十年――いや、何百年ぶりだろうか。
 不死であるが故、何十日も食事を摂らないこともある。そして仮に摂ったとしても、野生の獣や草をただ単に焼いたものが大半で、まれに店で食事をしていた。
 金銭の授受もせず、他人がつくった料理を口にする。
 そんなことなど、これからずっと経験できないことだと思っていた。
「どうにも……弱っていると、妙な事を考える」
 つぶやき、最後の一匙を口にし、咀嚼する。
 そして嚥下した瞬間、また扉が開いた。
 そちらに目を向けると、なぜかネギを持ったイノが姿を現す。
 ネギはどうやら焼いてあるらしい。コゲ目があちこちにあり、香ばしい臭いが立ち上っていた。
「……そのネギを、どうするつもりだ……?」
 当然浮かんだ疑問を、イノにぶつける。
 彼女はネギを手持ち無沙汰に振りつつ、返答した。
「ケツにぶっ刺す」
 ざざざっ。
 前回よりもずっと俊敏に、レイヴンが後ずさった。
 イノは開いた距離を詰めるため、一歩踏み出す。
「しょーがねぇだろ。こうすると治るって教わったんだからよ」
「その知識が間違っているという可能性はないのかッ!?」
「じゃあ間違ってないって断言できるのか?」
「それは……断言できないが……。
 とにかく! そんな治療方法があるとしても、私はそれに頼ることはしないぞッ!」
「テメェがイヤでも、アタシとしてはさっさとテメェを治したいんだよ」
「待て! 近寄るな! というより、何故に法術を紡いでるッ!?」
「どうせ、テメェが抵抗するだろうと思ってな」
「普通抵抗するだろうが!
 そもそもその笑い顔はなんだ! 本当に私を治すつもりなのか!?」
「ああ治すつもりだ。ついでにテメェの処女を奪ってやる」
「奪ってなんになるッ!?」
「自己満足する。
 アタシらは戦うたびさんざんあの紙袋に犯されてんだ。なのにテメェらだけ戦うときにはケツの穴に気を配らなくていいよなぁ?」
「ただの八つ当たりッ!?」
「まぁいい。とりあえず、止まれ」
「なっ――」
 イノから放たれた拘束の法術で、レイヴンの後退が完全に止まる。
 彼女は一気に彼に近寄り、ネギの持たない手でズボンに触れた。
「――待てッ! 待てえええぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇぇッ! 法術っ、法術を解ッ、解きッ――!」
 悲痛な断末魔が、拠点に響き渡る。




「まー、こんぐらいやりゃ良くなるだろ」
 楽観的につぶやいて、イノが時計を見やる。
 今は、午後八時。
 夕餉やその他諸々が済み、彼女が一息ついた。
 彼女は自室のベッドに腰かけ、知らぬ間に溜まった疲労に心地よさを感じる。
 ――結構、動いたんだな。
 自分の掌を見つめて、そう思う。
 最初は、ただ単に「レイヴンが働かなければ自分が働くはめになる」と考えて動いていた。
 しかし、世話を焼く内に段々と別の考えが顔をのぞかせてくる。
「――けっこー苦しがってたなぁ」
 どの場面を思い浮かべているかは分からないが、ゲスな笑みを浮かべてイノが独りごちる。
 彼女はブーツを脱ぎ、帽子を脱ぎ、毛布をかぶって眠る体勢に移った。
 疲労はすぐに彼女を夢の世界へと誘い、ゆっくりと目蓋を閉ざし――、
 目を開く。
「……声」
 レイヴンの声が、彼女を睡魔から引きずり上げた。
 イノはすぐさま起きあがり、ブーツを履いて彼の下へと急行する。
 勢いよく扉を開き、彼女が開口一番問いを発した。
「おいレイヴン! どうした!」
「……がはっ、ガハッ! ゴホッ!」
 返事もせず、咳を何度も続けるレイヴン。
 どうやら、症状が悪化したらしい。
「……さすがに、脅したのはマズったか……?」
 歯噛みし、現状確認のため彼の口にくわえさせた温度計を見る。
「……41度!? さっき見たときは39度だったってのに……」
 ――こうなると、マズいんじゃないか?
 イノが焦り、きびすを返した。
「待ってろ! 今、なにか冷やすモン持ってくるな!」
 言い残し、イノが台所でタオルを濡らし、絞り、持って帰る。
 タオルをレイヴンの額に乗せ、イノは彼に顔を寄せた。
「他に、なんかやって欲しいコトってあるか?」
「……いや……ゴホッ、げほっ! ……ない……」
 だが、このまま放っておくわけにはいかない。
 そうだとしても、やることが見つからない。
 苦い表情のまま固まるイノに、咳が収まったらしいレイヴンが呼びかけた。
「……お前、は……」
「なんだ? どうした?」
 虚ろな目でイノを見据えるレイヴンは、彼女の腕に手を伸ばす。
 彼女はそれに応えるように手と手を絡め、じっと彼の目を見つめた。
「どうしたって言ってんだろ」
「……世話をして、貰って……感謝する……」
「お、おう……」
 真正面から感謝の言葉を伝えられ、面映ゆくなり後頭部を掻く。
「い、いったいどうしたんだよ……?」
「……お前は、」
「だから……なんなんだよ……」
 今までのレイヴンと違う様子に、イノが怪訝な顔で問う。
 すると、彼はいきなり声を小さくし、なにかを囁いた。
「…………」
「おい、なにか言いたいならはっきり喋れ。
 いくら病気だからってよ、そこらへんちゃんとしねぇと伝わるモンも伝わんねぇぞ?」
「……だ……」
「だ?
 一文字で伝わるかよ。夫婦じゃあるまいしよ」
「……き……だ……」
「アァ?」
 焦れったく感じたイノが、彼に耳を寄せる。
 レイヴンの口とイノの耳が触れるほど近くで、彼の言葉がようやく彼女に伝わった。

「綺麗だ」

 …………。
 ……………………。
 ………………………………。
「え……?」
 最初は、理解のために。
「あ……」
 次に、困惑のために。
「ええええ……?」
 そして、実感のために。
「――うぇええええぇぇぇぇえぇぇぇえぇぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇッ!?」
 最後に、悲鳴のために。
 彼女は時間を割き、そして脱兎がごとく彼から逃げ出した。
「な、なななんなんなんなんだッ!?
 え? アイツ、なんて言った? なんて言ってたッ!?」
 ――綺麗だ。
「うあああああああぁぁぁぁぁっ!」
 イノが赤面し、自室に戻り、ベッドに飛びこみ顔を枕に押しつけた。
 ――どういう意図があって、あんなコトいったんだよ!?
 策略か。本心か。いや策略に違いない。
 そんな感じに決めつけて、イノが羞恥を激怒に変えて立ち上がる。
 ドタドタと足音を立て、彼女が扉を開けて怒鳴り声を発した。
「レ、レイヴンッ! テメェ、よくも、お、おちょくりやがって……!」
 それに応答する言葉は――なかった。
 ベッドの上では、すでに眠りこんだレイヴンが穏やかな寝息を立てていた。
 そんな風景を見て、怒気を孕んでいたイノのオーラが消沈していく。
「……なんだよ」
 気の抜けたイノは、そのままずるずるとへたりこんだ。
「いったい……なんだってんだ?」
 緊張が解けたその瞬間。
 忘れていたはずの眠気が襲いかかり、目蓋がゆっくりと閉ざされていく。




「――ノ――イノ――イノ!」
「ん……」
 体を揺さぶられ、イノは微睡みから解き放たれる。
 目を開くと、「あの男」がいた。
「あ……テメェは……――ッ! い、いえ、貴方様はッ!」
「心配だったから来てみたんだ」
 そう言って、イノに微笑みかける「あの男」。
「レイヴンが珍しく呼びかけに応じなかったからどうなっていたかと思ったんだけど……。
 無事だったんだね」
「いえ……詳細は省きますが、風邪のようなものにかかっていまして……」
「え? 風邪?
 でも、どうやらもう治ってるみたいだ」
「あの男」がレイヴンに目を向け、イノもつられて彼の様子を見た。
 どうやら「あの男」の言う通り完治しているようだ。咳も熱もない。
 二人が見つめる中、なにも知らないレイヴンが起き上がった。
「――くっ……朝か――?――わっ、我が主ッ!?」
「あ、ああ。おはようレイヴン」
「せ、先日は申し訳ございませんでした!」
 寝起き直後で土下座の姿勢をとった彼に、「あの男」が声をかける。
「その事はいいよ。
 僕はあと少ししたらまた『バックヤード』に行くね。それじゃ――」
「おいレイヴン! テメェやっと起きたか!」
「あの男」の前であるにも関わらず、イノが紅顔しながら責め立てた。
「昨日はアタシにフザケたコトぬかしやがって!
 完治したからにはもう容赦しねぇぞ! ネギ百本ケツに詰めこんでやる!」
 その言葉に、レイヴンは小首を傾げる。
「巫山戯た事、だと? 何の事だ?」
「ごまかしてもムダだ!
 き、昨日――アタシに『キレイだ』とかクサいコト……ッ!」
「は!?」
 レイヴンが間抜けな声を上げ、イノに問いつめる。
「誰がいつそんな事を言った!?」
「自分が言ったクセに忘れやがって! この痴呆症老人!」
「証拠捏造とは姑息な真似をしてくれるな、この恋愛詐欺師!」
「ガタガタうるせぇ! さっさとそのド頭を床に押しつけて靴でも舐めて謝罪しろよ変態妄言野郎!」
「妄言を吐いたのはどちらかその胡桃大の脳味噌で考える事だな墓穴売女!」
「ンだとこの認知症重患者!」
「誇大妄想狂!」
「…………」
 こうなってしまったら、冷めるまで待つしかない。
 二人を良く知る「あの男」は、和やかなため息を吐きつつ部屋を出た。
 そして、部屋の中から大きな音――音の鈍さから、人間の体が陥没した音だろう――がした後、扉から出てきたのはイノだった。
 彼女の姿を認めると、「あの男」は口を開く。
「あれは本当かい?」
「あれ……?」
「その……レイヴンが君に『綺麗だ』って言った事」
「ああ、アレですか。本当です」
 不機嫌な表情で答えるイノに、再び「あの男」が確かめた。
「レイヴンは、昨日まで風邪をひいてたんだよね?」
「は、はい……」
「そして、その言葉を言った時、高熱だった?」
「恐らく……」
「なるほど」
 うんうんとうなずき、「あの男」が診断を下す。
「それは、譫妄状態だね」
「譫妄状態?」
「そう。急に訳の分からない事を言い出したりする事だよ。
 起こるケースはいくつか考えられるけど――この場合は、多分高熱が原因だね」
「そう……ですか」
 幾分か安堵した様子で、イノが自室に足を向ける。
「あれ、イノ。どうするんだい?」
「……ちょっと、寝直します」
「ああ。分かった。おやすみ」
「あの男」が彼女の背にそう投げかけ、彼女もまたため息を吐いた。
「……なんだ」
 そんな。
 わずかに落胆を含ませて、イノが不機嫌につぶやいた。




 あの言葉は本当に、レイヴンの本心だったのか。
 それは、彼以外分からない。



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