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レイヴンさまはへんたいさん



今日もまた、新しい一日が始まります。
きっと、誰かにとっては変わり映えのしない一日でも、この私にとっては一生のものになる一日です。

まず、私は起きてすぐ、懐中時計を見るようにしています。
6時02分。健康的な時間帯に起きられました。

その次に、私は左腕を見るようにしています。
忘れがちな私は、左腕に今日やるべき、一番重要な事を書くようにしているのです。

【針 数百本程度調達 午後8時30分出発 西大通り直進 トネリコの廃屋】

「――よしっ!」

頬を叩き、ベッドから抜け、私はこの一日を始めました。



私が住んでいるのは、大通りから離れたところにある、小さな借家です。
まだ成人を迎えていない私には不相応な住処ではありますが、
音漏れ等、集合住宅では不都合な事もあります。

ただし勿論、集合住宅よりも値の張る借家です。
その借家の不都合が、テーブルの上に集約されています。

テーブルの上には、今日の仕事のメモの他、
昨日の内に用意された、二点の朝食がありました。

……豆の缶詰と、角砂糖の瓶。

受け入れがたいものはありますが――この豆の缶詰と角砂糖が、私の朝食です。
冷えた豆の味から、自身が置かれている困窮の度合いを痛感します。

ともかく、消化し終えた朝食をそのままに、左腕を洗い、服を着替え、
懐中時計が6時30分を差したその時に、私は仕事へ向かいます。



その道中。

「あ、あの! その、黒髪のおねーさーん!」

後ろから声をかけられたらしく、私は立ち止まり、振り返ります。

「……私、でしょうか?」

声の主は、十を数えたかどうか、というような少年でした。
表情は赤くはありますが、それは怒気によるものではないと思えます。
私はこの少年に、失礼はしていないようです。

とまれ、その少年は、私に用があるようです。

彼の言葉を待っていると、息を大きく吸い、上ずった声でその言葉が始まりました。

「なあ、もしかして、おねーさんって、オレの――クロト学園に通ってるヒトか!?」

「いえ。すみませんが、どの学校の生徒でもありません」

「そっか……いっつも同じ時間で、同じ道で会うから……つい」

「いえいえ。お気になさらず」

そこで、沈黙が落ちました。

あいにく、私は会話が得意ではありません。
穏便に会話を打ち切る言葉を探っていると、少年の方から切り出してきました。

「あの! 明日も、オレ、これくらいの時間にこの道にいるから!
 もし、その……また、会ったら!」

会ったら?

そんな疑問を浮かべるが早いか、彼は一陣の風となって去っていきました。

こんな体験は初めてです。
周囲の人々は、私を見てくすくすと笑いかけます。

『告白』とほぼ同じ事だと考えるのは自意識過剰ではないはずですが、しかし、
……明日のこの時間、私はどういう返事を返すのでしょうか?



7時34分、私は仕事場に着きました。

【モルタ縫製工場】

掲げられた看板の文字を確認し、従業員用の扉をくぐります。

そこに、年齢層が幅広い女性の方々がいらっしゃいました。
その年齢層の下限を広げるように、私がその輪の中に加わります。

雑談と噂話と陰口で騒々しい中、私は黙々と仕事の準備を整えます。

作業衣に袖を通し、点呼に加わり、持ち場であるミシン台へ移動します。

そして、持ち場を同じくする少女が、隣に立っていました。
同じ年頃の少女で、私よりずっと快活そうな印象です。

実際、彼女は明るい声で、私に話しかけてきました。

「やー! 久しぶり!」

「えっと……あの、」

「あ、覚えてない?
 ま、仕方ない仕方ない! んじゃ、今日もよろしく!」

その言葉が合図だったかのように、始業の鐘が鳴りました。

すぐに私たちの手と足が動き、一旦ミシンによる縫製作業に打ちこみます。
やがて、四肢が作業に慣れ始めると、隣の少女が会話を再開しました。

「ね、あのさ、やっぱアンタも親から働けってせっつかれた?」

「いえ。これは自分からです」

「そっか、自分から! 自立してるねー!
 アタシはね、ちょっと貧乏な家だったからさ、小学卒業したんだから『やれ』ってさー」

「……クロト学園、ですか?」

「そうそれ! そりゃね、教育費って結構な負担だけど、
もう少しガマンすれば王様がなんとかしてくれたのにね」

「中々、うまくいかないものですね」

「んっふっふ」

会話の流れに逆らって、彼女は不敵に笑いました。
自分でもわかる、怪訝な表情を向けますと、彼女は語り始めます。

「いやね、前まではうまくいかないなーって感じだったけどね、
 それがっ! 一週間前、この工場内で、ステキな人と出会ったの!」

「……どういった方ですか?」

「それはさ、大人でカッコいい、クリスっていう人でっ!
 すっごくタイプなの!
 これってさ、ココで働かなきゃ出会わなかったワケで、これって運命的な感じじゃない!?」

「あ、はは、そうですねー……」

「し・か・も、今夜! デートする予定までこぎつけちゃったのー! キャー!
だからさ、アンタも負けず劣らずステキなんだから、がんばっちゃいなよー?」

「まあ、そうですね……頑張ります」

「うぃっ!」

そんな他愛ない会話が、単純作業の疲労を和らげます。
あっという間に、時計の針が進んだように思えました。



7時49分、仕事が終わりました。
外はもう夜です。法力の明かりが、目に眩しい頃合いです。

仕事の間中は忘れていた疲れがどっと襲いかかり、今すぐにでも眠りにつきたいくらいです。
しかし、私には次の「仕事」があります。

その為にも、私は頑張ります。

私は終業後、まばらな人影に紛れ、箒で床を掃きます。

周囲の方々からは「小さいのに真面目だねぇ」とお褒めのお言葉をいただきますが、
それが少し面映ゆく、どこか罪悪感を覚えます。

床に落ちているゴミ類には、誰の所有権もないのは確認しておりますが、
その中から拾い上げた物を自分のものとするのは、少し心苦しくあります。

断ち切られた布、ほつれた糸、艶やかな髪の毛。
それらに紛れた、折れたミシン針を集める為、私は磁石を取り出しました。

ちりとりから吸い上げられた針を慎重に集め、袋に詰めていくと、すぐに量が取れました。
今までの分と合わせてこれなら、大丈夫でしょう。

懐中時計を見ます。8時24分。
いつの間にか、かなりの時間が経っていました。

慌てて外に出て、西大通りへと向かいます。
月は、針のように輝いていました。





私は、懐中時計も確認せず、高揚した心持ちで廃屋に飛びこみました。
まだ予定の時間ではないのでしょう、中には誰一人としていらっしゃいません。

一瞬深く落胆しますが、しかし、それならば「主」を迎えるにふさわしい場にしたいと存じます。

まず、床に散らばる枝葉と土を、箒によって屋外へ掃き捨てます。
次に、ベッドからマットを剥ぎ取り、内部に溜まった埃を叩き出します。
それから、蜘蛛の巣を払い、蝋燭を取り替え、腐臭を香で追い出し、使用済みの赤いシーツを新調し、床の血糊を雑巾でこすぎ落とし、鍵付きの地下にしまった拷問具を点検し――、

ありとあらゆる事を終え、それでも「主」はいらっしゃいません。

「主」は多忙な御方です。
もしかすれば、今宵に不穏な事が起き、その対応に追われていらっしゃるのかもしれません。
このような事は、恐らく今日だけの事ではないでしょう。

懐中時計の針をずっと目で追っている時間は、硝子が垂れる程に遅く感じました。
しかし、しかし。だからといって、この場を離れる事など、
私が今日を生きてきた希望を自ら断ち切るような、
いえ、積んできた過去全てを無に還すような、存在意義を否定するような、この世界の何物よりも無価値にするような、そんな事など、できませんでした。

今日が消耗されていく恐怖に震えながら、私はただじっと、廃屋で「主」を待ちました。

懐中時計の秒針は同じ道筋をぐるぐると回ります。必死に私はそれを支えに凝視しました。
ぐるぐると、ひたすらにぐるぐると、
私の胸中の不安の渦のように回ります。周ります。廻ります。輪ります。輪姦ります。
めぐりまわり、ふれまわり、まわりふるまい、くるくるぐるぐる狂狂と、時刻むごとにかちりと耳障りな音を立てて、嘲笑うような音で私を責め立てています。
宝物を壊したくなる程に壊れそうでした、私は。「ああ、神さま、ママ」と、歯を鳴らす小声は私のでした。わたしは「会いたいよぉ」とお願いします。あっ、間違えてる。これだと、願いは誤解されちゃう。「神さまとママじゃない、」そう、そう。わたしが会いたいのは、こんなわたしを産んだひとじゃなくって、

「レイヴンさま――」

それは、一日限りの奇跡で、明日から命を落とす呪文だったのかもしれません。

うずくまる私の髪を、迸る風が撫で回しました。

思わず懐中時計を落としました。それは確か、12時か0時を差していたと思います。

目を上げます。
死臭を伴った風が目を乾かし、埋め合わせの涙が溢れました。

緑がかった風が収まり、見計らった月光が、美しくカーヴを描く玉手にかかります。
月光は心細い光量にも関わらずその御身の雅な事は、旗幟鮮明に取れました。

透き通った白髪は、その長命さを物語り、
頭部の前後を貫通した針は、その不死性を表し、
切れ長の瞳は、魔性の眼光を冷たく宿し、
神の手を施された面差しは、嘲りすらも画とし、
首筋は細く、しかし力強く伸びやかで、
鎖骨の窪みは天上の盃と言っても過言ではなく、
雄大な肩は、生易しい包容力ではなくその強壮たるかを証明し、
筋と骨肉が調和を為す腕で、命を刈られていただいても、それは文句も後悔も無く、
引き締まった胸部が脈動する度に、見る者の心を留め、
連続して腹部、禁欲的に鍛え上げられたその張りは、むしろ他者の欲を掻き立てるようで、
中央に在す御臍は、心象の地平線を表出させる精神的重力を持ち、
豊かな腿には、狩猟動物のそれを思わせる力学的合理性が見出せ、
刃物の印象を受ける脛は、強かでしなやかで尊く存在し、
履物で隠された御御足は、その内の爪先までがどのようなものかを想うだけで吐息が出るものです。

レイヴン様は、その不変なる美貌と共に、私の目の前に降臨されました。
私を一瞥すると、ゆったりと口を開き、皮肉げに笑いかけました。

「随分と時間が経ったというのに、まだいたのか」

「はい。レイヴン様の為であれば」

「……理解できんな。だが、その不可解な意志が続くのならば、利用させて貰う」

「光栄でございます」

頭を垂れ、隠せぬ歓喜を声色にこめて、私はそう答えました。
私は、針の詰まった袋を取り出し、レイヴン様に差し出します。

「よろしければ、お納めください」

レイヴン様はその袋の口を開き、中の針を一瞥すると、すぐに判断を下されました。

良しグート

その言葉を得られ、私の胸中は喜びに満ちました。

レイヴン様はすぐにその袋の中身を左手一杯に取り出すと、左手を口に運び――、

思わず私は、そこから予想される行為から、慌てて目をそらしました。

「――ンぎッ、ギおぉ――ヂいぃ良ィイッ……」

その言葉が常と比べて声量がないのは、声を出す器官に損傷ができからでしょう。

恐る恐るレイヴン様を視界に映しますと、恍惚と震える御身と、少しばかり針が刺さった左手と、それと喉元――、

「ひっ」

私はその凄惨さに、己の首を抱えてうずくまってしまいました。
しかし、レイヴン様は私の腕をこじ開け、目を合わせられました。

貴様が仕える、貴様の主を見てみろひハァかヅかェる、ギァあのアうヂヲみぇいるォ

「は、ぃ……」

涙を浮かべ、私はレイヴン様のその痛々しい御姿を見ました。

喉には、血に混じって光る針が、その先端を輝かせています……。

レイヴン様は、針があちこちに刺さった口を大きく開き、幾つもの針で貫通した舌を見せつけるように、ねっとりとつぶやきました。

どうした? 貴様の尊ぶ主を見れないのか?おうジダ? ィあま゛オどうロヴあぅヴィウォみえニぁイノか?

私は――、

レイヴン様の事を、忌避する訳では決してありません。

ですが、凡俗の感性を持つ私にとって、時としてレイヴン様の自慰行為には、目を覆ってしまう事があるのです。

そして……その事について、レイヴン様はご存知の上で、そう問いかけられているのです。

「ご命とあれば……貴方様の、髄の奥まで拝見いたしましょう……」

レイヴン様の口の端が嘲笑に満ち、再生した声帯から言葉を紡ぎました。

「いずれはそうするつもりだが、今は、違う」

レイヴン様は、針の袋を私に付き返しました。
私はそれを両の手で受け取ると、レイヴン様は右手をこちらへ突き出します。

「手の中で、最も神経が通う場所はどこだと思う?」

「……手の平、でしょうか?」

「爪と指の間だ」

昂ぶりの籠る嘆息と共に、指が艶めかしく動きました。

「さあ……貴様の刺激に期待している」

「……承知いたしました」

私は、袋から針を一本取り出し、袋を懐に収めました。
そして、左手でレイヴン様の御手をとります。

生命を感じられない冷たさが、私の左手に圧し掛かりました。
そのままでは安定しない為、私よりずっと大きな薬指を、左手の全指を絡ませて固定し、
右手の針を――レイヴン様の薬指にあてがいます。

このまま針を押し出せば、当然指に刺さります。
それを我が身に置き換えると、自然右手がわななきました。

数秒の躊躇でしたが、レイヴン様の貴重なお時間を奪ってはならないと、心を決めて力をこめました。

刹那、

「――あァっ、ハあぁアアッ……! 気持ち良いッ! 気持ち良いなァ……ッ!」

嬌声を上げ、レイヴン様はがくがくと痙攣します。
私の右手には、勢い余り、先端が指の腹から飛び出した針があります。

その光景の傷ましい事は、私の心にも傷をつけるようでした。

ですが、レイヴン様はお喜びになっておられます。
役に立っている実感を覚え、私は恐れの心に充実を満たし、己を奮い立たせて二本目の針を持ちました。

薬指から小指に持ち替え、ひきつる身体に鞭打ちます。

「し、失礼、いたしますッ……!」

「あぁ、来い……! 私を貫いてみせろ!」

そのお言葉に促されるまま、二本目の針は小指に飲みこまれました。
今度は、針の全長が小指に埋まります。

「アアッ!」

レイヴン様は小刻みに小指を揺らします。

その歓喜の様に、従者の本望が満たされます。
それと同時に、嫌が応にも感覚を共有しようとする精神は、背筋に怖気を走らせました。

それでも――、
眼前に在すこの御方は、今日この時にしか逢えないのです。
従者の責を果たすのは、この時にしかないのです。

半狂乱の状態で、私は針を何本も手に取りました。

同じ箇所に同時に刺したり、軟骨と共に貫通させたり、
爪の真正面の刺しようが無くなった時には、横から無理矢理入れこみ、
勢い余り、下から貫いた時には、爪が針に押され、剥がれたりしました。

終いには、レイヴン様は私の右手を取り、強引に前後させ、針を指に出し入れするようになりました。

耳に染みこむ、よがった声、
液体が溢れ、はじけ、垂れる音、
鼻を刺す鉄の生臭い空気、右手に伝わる、肉を侵す感触、針の冷たさ、
死体はそうなのだろうという手の冷たさ、それが私の体温で温まるその実感、
視界には暗闇と、月光に照らされた血の照りと、
レイヴン様の御身が、私に覆いかぶさるようにいらっしゃいました。

その吐息の息苦しそうな様は、レイヴン様の本質的な美しさが様となっていて、
レイヴン様は私の行いによって快感を覚えていらっしゃっているようで、たまらなく充足いたしまして、
嗚呼、レイヴン様はそのように、平常の冷静さから考えもつかないあられもない御姿でいらして、
レイヴン様はその口元から幾遍も満ち足りたお言葉を私におかけになられ、それもまた私の心を満たし、しかし、私の手は随分とレイヴン様の血で汚れ、いえ、血で洗われていき、それは私の腕を伝って私の衣服に染み出て、服が濡れてまとわりつくその感触は抱擁のようで、
私は必死にレイヴン様を刺しました。その血と私の肌が触れる度に、私の忠誠は表出されていきます。レイヴン様は何度も私の針を受け入れていただき、それが言葉にも表せないほどに光栄な事で、堪らなく想いが込み上げていき、私はやがて悲鳴のような驚喜の声を、レイヴン様の愉悦の声と共鳴するように吐き出し、レイヴン様はその左手から何本も針を生やしてもなお懇願し、それにお応えする為に私は己の心に刺すように針を刺し、差し、射して挿して注しました、こんなに、どろどろと血を撒き散らして、レイヴン様はそれでも声を上げました。無論、それは悲痛ではなく極上を猛る声で、それが私の心を尚更に掻き混ぜて混沌にしていき、レイヴンさまはより高まり、レイヴンさまのそのお声は私をゆさぶり、レイヴンさまはわたしの手を前ごさせてレイヴンさまの肉をかき乱しレイヴンさまは何どもあえがれてレイヴンさまはわたしの頭にひびきわたって――、

心が、まひしたようで、

それきりもうろうとした頭でぼうと立ち、それでもはりをわすれないようにしていると、
ふくろの中からは、はりがもうなかったのです。

とおい所から、声がしたようにきこえました。

「――じゅうぶんだな」

レイヴンさまです、たぶん。

レイヴンさまはわたしのようすを見ると、わたしの手をひいてくださり、ベッドによこにさせました。

「何ともよわい子どもだ。このままではつかえないな」

つめたいわらい方をして、レイヴンさまははりでいっぱいの手をわたしの目のまえにさし出します。
それをどうしたいのか、わたしは分かります。

わたしは、手にいちばん近い、自由になるところで、レイヴンさまのはりをぬきました。

そんなわたしを見て、レイヴンさまはおどろいたようでした。

「口でぬくとは、思わなかったが……まあいい、すべてぬいてみろ」

わたしはひたすらにはりを口にくわえ、レイヴンさまの手をあらわにしていきます。
その間じゅう、レイヴンさまはただじっと空を見ていらっしゃいました。

そして、ぜんぶはりがぬけると、レイヴンさまはしつもんされます。

「今、何じだ?」

かい中時けいを出して、3時4分とよみ上げました。

「3時20分か。ころ合いだ」

レイヴンさまは、わたしの手にかみをにぎらせました。
それから、わたしに手をかざすと、ちでびしょびしょのわたしのふくを、ほう力で白くしました。

「――ありがとうございます」

わたしはあたまを下げ、レイヴンさまにお礼をのべました。

レイヴンさまはわたしを見ると、口をつりあげてわらいがおになります。

「ゆくぞ」

その三文字で、わたしの心はくるしくなりました。
でも、わたしは下のものです。とめることはできません。

さいごまで、わたしはレイヴンさまを見たいですが、
それをがまんして、あたまをさげました。

「本日は、ありがとうございました。おきをつけて下さいませ」

それをきいて、わたしを見もせず、レイヴンさまは風にきえました。

それが、わたしとレイヴンさまの、今日さいごのことでした。





わたしは、わたしの家にかえります。

まよ中です。ほう力でてらされたみちでも、とても心ぼそいものでした。

そのと中、

「おい、そこのじょうちゃん! とまれ!」

いきなりうでをつかまれて、ふりかえるとけいさつがいました。

「わああああああああ!」

つかまる。つかまってしまう。
それがこわくて、わたしは手をふりまわしました。

「あああああっ!」

「おい、あばれるなっ!」

そこに、べつの声がわりこんできました。

「――そのあたまのよわいガキじゃない! 大人だ! おってるのは大人だよ!」

「い、いやでも、これくらいの年のがひがいしゃででたなら、ほごしなきゃまきこまれ――」

「やああああああああああ!」

つかむ手がゆるんだ時に、わたしがむりやりかけだします。

「こら、まて!」の声がとおくきこえて、でもおってきません。

わたしは走っていえにとびこみました。

時けいを見ます。5時6分、わたしがおきる時間まで、1時間もありません。

わたしはあわてて明日のしたくをととのえます。

戸だなから、豆のかんづめと角ざとうをテーブルの上に出し、しごとのメモは今日のままにしておきます。

それから、レイヴンさまからもらったかみをもとに、左うでにあしたのことをかきました。

これで、今日のすべてはおわりです。

わたしは、したくをおわると、すぐにベッドの中に入りました。

きっと、今日のゆめは、しあわせなゆめなのです。





今日もまた、新しい一日が始まります。
きっと、誰かにとっては変わり映えのしない一日でも、この私にとっては一生のものになる一日です。

まず、私は起きてすぐ、懐中時計を見るようにしています。
6時丁度。健康的な時間帯に起きられました。

その次に、私は左腕を見るようにしています。
忘れがちな私は、左腕に今日やるべき、一番重要な事を書くようにしているのです。

そこに書かれた事を読みこむと――、

「……凄く、難題ですね」

これは困りました。

独力ではどうにもできませんし、
お金では合法的に解決できません。

どうしたものか――、

「――よしっ!」

それでもとりあえず頬を叩き、ベッドから抜け、私はこの一日を始めました。



私が住んでいるのは、大通りから離れたところにある、小さな借家です。
まだ成人を迎えていない私には不相応な住処ではありますが、
音漏れ等、集合住宅では不都合な事もあります。

ただし勿論、集合住宅よりも値の張る借家です。
その借家の不都合が、テーブルの上に集約されています。

テーブルの上には、昨日の内に用意された、二点の朝食がありました。

……豆の缶詰と、角砂糖の瓶。

受け入れがたいものはありますが――この豆の缶詰と角砂糖が、私の朝食です。
冷えた豆の味から、自身が置かれている困窮の度合いを痛感します。

朝食を消化する最中、テーブルの上にあった、朝食とは別に用意された仕事用のメモを見ます。

【6時30分出発 モルタ縫製工場】

それから、朝食を終えた後、左腕を洗い、服を着替え――、

その最中、ドアのベルが鳴りました。
時間の余裕は、一応あります。

私は玄関へ行き、ドアを開けました。

「どなたでしょうか?」

そう言いましたが、それ以前に服装で分かりました。

「――警察の者です」

「わああっ!」

思わず、声が出ます。

……もしかすれば、以前犯罪を犯したのかもしれません。
あるいは、私とレイヴン様に関係性があると突き止められたのかもしれません。

気取られぬよう、玄関脇の火掻き棒に手を出しました。
場合によっては、自分か、あるいは相手を殺さなければなりません。

そう緊張する私ですが、それは杞憂に終わりました。

警察は、手に持った紙――鉛筆で描かれた、大人の女性の肖像画を見せながら、質問を投げかけます。

「こちらの女性、クリスティーナというものですが、
女性に見覚え、または、どこにいるかご存知ないでしょうか?」

「いえ……すみません、存じ上げておりません」

どうやら、私を犯罪者としてつかまえるようではなかったようで、ほっと胸を撫でおろします。

警察は、私の姿を検分し、渋い顔をして告げました。

「実は、このクリスティーナという女性は犯罪者でして――、
昨日の夜、モルタ縫製工場で働く少女を殺害した容疑に問われております。
……被害者は丁度、お嬢さんほどの年頃でした。お気をつけてください。
それでは、失礼いたします」

警察は、一礼して次の家へと向かいます。

「……大変ですね」

ぽつりと他人事のように――実際、他人の事として、私はつぶやき、家の後片付けを行いました。

懐中時計が6時30分を差したその時に、私は仕事へ向かいます。



その道中。

「あ、あの! その、黒髪のおねーさーん!」

後ろから声をかけられたらしく、私は立ち止まり、振り返ります。

「……私、でしょうか?」

声の主は、十を数えたかどうか、というような少年でした。
表情は赤くはありますが、それは怒気によるものではないと思えます。
私はこの少年に、失礼はしていないようです。

とまれ、その少年は、私に用があるようです。

彼の言葉を待っていると、息を大きく吸い、上ずった声でその言葉が始まりました。

「えっへへ……その、昨日の約束通り、来てくれたんだな!」

「えっ?」

困惑する私の様子に、少年は疑問を表情に浮かべて、それをぶつけました。

「まさか……昨日の約束、覚えてないのか?」

少年のもっともな疑問に、答えました。



「私の記憶、一日しか持たないんです」

――前向性健忘症。
新しい事を、全く覚えられない病。



「えっ……?」

彼は、唖然としました。

「じゃあ……昨日の返事も、聞けないんだな……」

「返事……と、言いますと?」

「その……告白、の……」

……これは、悪い事をしました。
昨日の私は何をやっていたのでしょう。

しかし、これは好都合でした。

私はにっこりと、満面の笑顔を粉飾すると、少年に返します。

「私――元気な人、好きですよ?」

「え……?」

真に慕う方は――元気になるのは、苦痛を得た時のみですが。

「だから……こんな私ですが、付き合ってくださいますか?」

「う……うん!」

「では、西大通りを直進した所に、トネリコの大木の近くに廃屋があるので、
夜遅くになると思いますが――待っていただけませんでしょうか?」

「もちろん! オレ、学校終わったら行くよ!」

「ありがとうございます。嬉しいです」

本当に、嬉しいです。



今日、レイヴン様に用意するものは、【使い捨てのできる運び屋】でした。



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